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池袋の新文芸坐で、増村保造特集。 『氷壁』 と 『巨人と玩具』 の2本立て。 この劇場は、単なる二番館に留まらず、 池袋東口のいかがわしい匂いに充ちた歓楽街のド真ん中で、 本当にいい映画を後世に残していこうと闘っている数少ない劇場のひとつ。 増村保造は相変わらず根強い人気のようで、 今回も客席が7、8割埋まるほどの盛況ぶりだった。素晴らしいことだ。 面白い映画を撮れる監督とそうでない監督との分かれ道は何か? それは、“女”を描けるかどうかだ。 もちろん、“女心がわかる”なんて意味じゃない。 そんなことを書いたら、まるでボクが女心をわかってるみたいに聞こえるじゃないか。 そんなわけはない。わかるわけがない。一生わからない。 “女を描く”とは、 それが男側の身勝手な偏見であれ、傲慢であれ、理想であれ、趣味であれ、 とにかく男の純情と下心という二極構造を惹きつけてやまない、 そして容赦なく現実の向こう側へと堕としてしまう、 そんな“女の情念”みたいなものを描けるかどうかってことだ。 溝口健二、成瀬巳喜男、マキノ雅広、川島雄三、三隅研次、中平康、そして増村保造……。 それぞれに描き方やテイスト、軽さ重さは違えども、 これら名監督たちの映画が今なお色褪せていないのは、 やっぱりフィルムのなかで躍動する女たちが、 妖しく、艶めかしく、可愛く、そして美しく輝いているからだと思う。 今や女流監督の数も増え(この“女流”という言い方も本当は差別的なんだけど)、 こんな文章はもしかしたら女性たちの逆鱗に触れる類のものであるのかもしれないが、 それでもやはり、そして誰に何を言われようと、 かつて映画は、男が独りで観るものだった。 それが今では、映画は“女”を映さなくなり、 現代の監督たちもそれをまるで腫れ物のように避け、 (男なんてものはどだい単純だから、思ったとおりに描けばいいだけの話だ) 誰が観ても当たり障りなく文句のつけようもない、 後の算盤勘定だけが肝心の薄っぺらい恋愛ドラマがデカい顔するようになってしまったのだ。 これが当世流行りの“純愛映画”の正体であり、そしてそれは、 要領よく女心の上っ面をくすぐるだけのズル賢い“ホスト映画”と言うこともできるのである。 今回観た増村監督1958年の作品、『氷壁』 のなかで、 人妻との叶わぬ恋に破れた男が、 天候不順の雪山でビバークするなか、 連れの男に、「俺たちはなぜ山に登るんだ?」と尋ねる。 「そんなの、好きだからだろう?」と返す仲間に、彼はこう言う。 「違う。好きだからじゃない、逃げたいからだ」と。 なぜ、山に登るのか? なぜ、女を愛するのか? そして、 なぜ、映画を観るのか……? 好きだからか? 違う。逃げたいからだ。 だからかくも映画館の闇のなかは、 女に抱かれているかのように、心地好いのである。 |
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| 内 容 | ニックネーム/日時 |
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おはよう?!ございます(笑) |
sayoyo 2005/10/15 05:40 |
おはようございます。(笑) |
栗本 東樹 2005/10/16 01:11 |
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