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バブル崩壊後の90年代、 阪神大震災にオウム事件に酒鬼薔薇と、 まさに“世も末”な世紀末を象徴するかの如く、 “死体”がカルチャーとして扱われる時期があった。 ご多分に漏れず、当時グズグズと会社勤めをしていたボクの部屋の本棚にも、 たとえば「殺害現場」なんて残酷な死体写真満載の本が並んでいたり、 (ほかに「宇宙人の死体写真集」なんて本も・・・今も持ってたり) 映画でも昨年、急遽来日したドイツの異色映画作家ユルグ・ブットゲライトの、 自殺映画、『死の王』 や、死姦映画、『ネクロマンティック』 を観たりしては、 ほかの映画じゃ味わえない暗黒的なカタルシスに浸っていたモンだった。 (ちなみにブットゲライトは、いまだにドイツで映画を撮ることを禁じられているらしい) カタルシスに浸るなんて書いたけど、 なぜ、そうした本や映画に心惹かれていたのかと言えば、 まぁけっきょくわからないんだけどどこか“安心”する部分があったからだと思う。 本や映画を通し、本来、人が目を背ける禁忌的な何かを自分の中に取り込むことで、 自分の内面の弱い、不安定な部分を“補強”されるような感じが心地好かったんだと思う。 人が目を背ける何かを直視することで自分に自信を持ちたかったんじゃないか…と。 よくよく考えれば、死体に興味を示すなんて人から余計に白眼視されるのに。 まぁ時代も時代で、90年代という時代そのものが廃墟のようなモンだったので、 そんな不安な時代に世紀末的アングラ・カルチャーがマッチしていたってことなんだろうけど、 しかしひるがえって廃墟の時代を乗り越えたかと思えば今や世は格差社会と呼ばれ、 世紀末を凌駕してついに人の死も軽く扱われてかつ人の記憶に残らない時代。 一億総“躁”状態みたいに世間を席巻する残酷な“死”でも人はすぐに忘れてゆくし、 ネットが人の死を軽く扱う風潮の促進剤になっている印象はどうしたって否めない……。 一見、時間を割きワザワザ金を払ってまで、 人の“死体”を観に行くという行為は異常なれど、 しかしこんな“稀薄な万能感”に支配された時代では、 そんな行為こそが最も能動的かつ健全なものであるような気さえボクはする……。 自主映画制作やAV監督を経て10年以上にわたり、 人の死体を被写体としてタイやコロンビアやロシアなど、 世界中の無法地帯や紛争地帯を取材してきた死体写真家、 釣崎清隆氏の手による衝撃の死体ドキュメンタリー 『ジャンクフィルム』 は、 確かに上映時間90分、正視するには相当の覚悟がいるショック映像満載の作品なれど、 しかし、その被写体へと向かう極めて作家的な姿勢と構成は、 死が生と“背中合わせ”であるという当然ながら人が普段意識しない、 命の核心について考えさせてくれ、 そして死を真っ直ぐに見つめることが生の営みであることを真摯に教えてくれる、 決して悪フザケやヤマッ気で撮られたワケではない真に観る価値ある人間ドキュメントだ。 タイ、コロンビア、ロシア、パレスチナ、インド、そして日本で撮影され、 13の章に分けて構成されたこの作品は短篇集。 路上に転がる頭部損壊の様子も生々しい血に染まった事故死体。 社会の吹き溜まりのゴミ捨て場に無造作に捨てられたただの“物”でしかない死体。 物言わぬ孫の前でベッドの上に横たわる顔面を銃で撃たれた老婆の死体。 鼻や口から血を垂れ流していかにも所在なくブラ下がる首吊り死体などなど、 虚飾のない死の現実というものがひたすらスクリーンに映し出されてゆく……。 “死体”という、それは人の形をした肉の物体が周囲の風景とともに醸し出す、 それはもう、ある種魔窟的としか形容しようのない魅力(魅力と言っていいのか…)、 そしてボクなどはどこかそんな魔窟的空気に憧れかつてタイやインドを旅していたので、 題材以上に作品が放つアジアのアングラ的なオーラにグイグイ惹かれるワケだけど、 確かにムリという人に観ることをススメられる映画じゃないことだけは事実だ……。 公開初日の劇場は満席だったけど、途中で退場してしまうという人も少数だがいた。 (だけど、映像には“匂い”がないので、観る者にとり都合がいいと言えば都合はいい) だけど、映し出される数々の死体を見て思い知るのは、 当然だけど人は死ねばただの“肉の塊”でしかないという厳然たる事実。 ブットゲライトも言っていたが、“死”は“死”でしかなく、それ以上でも、それ以下でもない。 しかしそのテーゼは決して虚無的な考えへとは至らず、 人は死ねば肉の塊であるということを思い知るからこそ、 逆に命には明確な期限があり、だから軽んじるべきではないということが、 視覚的ダイレクトに伝わってくるという言い方もできるんじゃないだろうか? そして、そんな意味を踏まえて本作最大の観どころ(?)なのが、 ボクは全然知らなかったけど、タイのどこか地方で行われるという、 無縁仏(身寄りのない死体)として一旦は埋葬された死体を掘り返し、 あくまでボランティア(!)で集まったという仏教に篤い人々が、 死体にいまだ付着している肉や皮や脂を削いで骨を洗うという、 言わば、“死体洗い祭”とでも言うべき驚愕の儀式を捉えた映像。 (釣崎氏曰く、死体写真家人生の中で最も強烈な匂いだったという) 要は、無縁仏が多すぎてすぐに敷地がいっぱいになるので、 定期的に古い死体から掘り返してはそうして別の場所に移すという、 不謹慎な喩えをすれば、『ゾンビ』 の原典に通じるみたいな祭典なんだけど、 映像には匂いがないからとは言え、しかし祭典から醸される雰囲気はとても牧歌的で、 言葉から連想するほど陰惨さやグロとはそれこそ無縁な感じさえし(グロいけど)、 骨をゴシゴシ一生懸命洗っている若い男性が釣崎氏のカメラに向かって、 「サワディーカァー(こんにちは)」と言って頭を下げる場面じゃ思わず吹き出してしまった。 そのあまりに自然な風景はまるで、 死は避けるべきことじゃなく死をその手で大切に扱うということこそが、 生の営みの中で最も大切とされるべきことなのだと、 暗に示しているかのようでボクはなんだか猛烈に感動してしまった……。 死ねば仏。ボクもアナタも、いずれ時がくれば人は必ず死ぬのだから……。 今や死体を見るだけならワザワザ映画で見なくても、 ネットを開けばそのテの画像や映像はいくらでも出てくるし、 ましてやイラクで捕まった青年が斬首される映像さえネットに流れ、 それを中学生や高校生がケータイで「へぇ〜」とか言いながら見るような時代である。 監督が今回、そうした死にまつわる海外の儀式に加え、最終章の日本の“お骨拾い”、 また、インドはバラナシ、有名なガンジス河畔の“焼き場”を取材して作品に入れたのも、 この時代に単に死体を映すだけなら作品としてなんの価値もないという自覚ゆえに違いない。 10数年にわたり、優に1000体以上にも及ぶ死体とガチで向き合ってきた監督の映像は、 決してネット上に安易に氾濫する、グロ、オンリーの軽々しい物とはワケも趣も違う。 これは、 残酷な映像の中にこそ死と前向きに対峙する生の大らかさを捉えた真摯な作家映画なのだ。 とは言え、やはり映像は超が付くほど強烈。目を背けるのもアナタの自由だ。 だけど夏は我々にとり、死と向き合う大切な季節であることも忘れてはいけない。 今年の盆は、前後にこの 『ジャンクフィルム』 を渋谷で観てから墓参りに臨むという、 そんな夏の過ごし方をされてはいかがだろうか…? まぁ、さすがに観る前後に食事をすることだけはなるべく控えた方がいいとは思うけれど……。 [ アップリンク](渋谷) にて7月27日(金)まで、8月毎週木曜レイトショー公開 ] |
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| 内 容 | ニックネーム/日時 |
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あ、私もこれチェックしてましたが、なんだか感動されたようですね! |
とらねこ 2007/07/27 01:09 |
レポありがとうございます。 |
なお URL 2007/07/27 02:49 |
>とらねこさん |
栗本 東樹 2007/07/27 20:20 |
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