やがて始まる、“自分”原理主義者たちの饗宴… 『十七歳の風景 少年は何を見たのか』
それはもう、21世紀日本型の“テロ”と言っていいと思う。
黙っていたこどもが、ある日突然親を殺す。
かつての学童が、
ある日突然母校に侵入して教師を刺し殺す。
イジメられっ子が、
ある日突然教室に向かってバクダンを投げる。
17歳のクソガキが、
ある日突然バスをジャックして乗客を殺す…。
もちろん、こういう10代による信じ難いような
凶悪犯罪はずっと昔から多くあったとは思うし、
もちろんそこには、ボクらにだって身に覚えのある ―親との確執、学業のプレッシャー、教室内の人間関係―
様々な心的要因が犯行の理由としてあったとは思うけど、
それにしたって、ここ数年のこの手の事件の衝撃性はボクたち常人の理解の範疇を遥かに超えて、
正直に言えば、いったいどれがどの事件なのかさえ
よほどニュースを憶えていない限りまるで把握することはできないというほど、錯綜と混迷を極めている。
ただ、そこにボクたちが感じてしまうかなり漠然とした恐れや不安は、例えば
悪という世界的認識以前に“テロリズム”をまるで理解できないそのもどかしさに似てはいないだろうか…?
そう、“理解できない”。そしてそれは、
もはや家庭や、学校や、普段歩き慣れているいつもの路上がいつ“戦場”と化すかわからないという
疑心暗鬼、人間不信、コミュニケーションの断絶といった末期的悪循環と際限のない焦燥を生む…。
人の痛みを理解する術を覚えることなく育ってしまった異形の“自分”原理主義者たちのテロは、
今この時間にも日本のどこかできっと起きているに違いない…。もはや日本に、安息の地はない。
母親を殺し、
たったひとり自転車に乗って北へと旅をつづける少年。
その途上で出会った、
自分と同じ年の頃に戦争を体験した老人や強制連行されてきた朝鮮人老婆との触れ合いを通して、
彼は何かを見出してゆく…。
ボクの書いた文章が限りなく曖昧で観念的でまるで説得力に欠くように(同列に語っては失礼だが)、
この映画にも、何ひとつ“答え”らしきものは出てこない。だから、
2000年に岡山県で起きた17歳の少年による母親殺害事件に想を得て本作を撮った若松孝二監督は、
“答え”をムリに求めたりはせず、ただひたすら少年に寄り添うカタチでいっしょに旅をつづけてゆく。
そしてそんな監督独自の製作姿勢によって生み落とされたこの映画のテーマは、
少年は旅の途上で何を見たのか、少年はなぜ母親を殺したのか、なぜ人を殺してはいけないのか、
とループ式につながって、観る者すべての心に永久に答えの出ない対話の種を植え付けてゆく…。
しかし、それでも監督が無意識のうちに映画のどこかに“答え”を見出そうとしているのが見て取れて、
ボクはそこに拭い難い違和感を覚えてしまったのもまた事実。
やはり、母親を無残に殺した現代を生きる孤独な少年と、
10代のすべてを戦争に捧げざるをえなかった老人たちとの対比はあまりにも突飛すぎて不自然だし、
せっかく少年に多くを言わせず、小っぽけな彼と大きな自然との比較によって物語を語っているのに、
字幕ナレーションや彼と同世代の高校生たちの会話を見せるというのはハッキリ言って余計なお世話。
そういうある意味昔気質な演出法は、あまつさえ少年の存在感そのものを薄めてさえしまっている。
何より、少年の心に“寄りすぎる”若松監督の性根のやさしさは、
17歳の心の闇を現代的な問題として取り上げることを放棄してしまっているようにボクには思えた。
それはもしかしたら監督の意図によるものなのかもしれないが、だとしたら、
この母親殺しの少年の物語は、やはり映画のなかだけの話として普遍性を欠いたものになってしまう。
間違いなく、
これは日本映画が今こそ扱うべき題材を真っ正面から取り上げた男気いっぱいの若松映画である。
友川カズキの魂を振り絞るような歌声とともに日本人なら誰もが観るべき重大な1本だ。
しかし、この映画には、
どこまで行っても、そしてどんな雄大な景色を見ても真っ暗闇でしかない、
そんな“十七歳の風景”に観る者を感化させて震え上がらせるような恐ろしさが何よりも必要だった。
自分でも、何を書いているのかわからない。これ以上、何を書いていいのかわからない。
だけど、“わからない”ということを身をもって知る以外に、
ボクらが自分の身を、そして大切な人を守ってゆく術は見当たらないような気がしてしょうがない…。
だって、簡単に“人の気持ち”がわかるということの方が、本当は危険なことなのだから。
その“ムリ”は、いつか必ずストレスとなり、軋轢を生み、そして、凶行を呼ぶ。
【下記コメントに対する返信コメントのつづき】
確かに、上記の文章を読んだまま解釈すると、まるで現代を生きる
10代の若者すべてが「“自分”原理主義者の群れ」であるかのような書き方をしているように見えますね。
でも、それは違います。ただボクは、多発する10代の凶行の根底に、
彼ら以前に歪んでしまった大人たちの価値観の問題がある、というような紋切り型の解釈もしたくなかった、
ということなんです。
この映画の主人公のような少年たちのことを、トンさんのご友人たちは、いったいどのように見ているのでしょう?
おそらく、ボクと同様、わからないんじゃないでしょうか? 怖ろしいんじゃないでしょうか? なぜなら、
ボクやトンさんの世代のなかでも、まったく上記に挙げた10代の凶行と似たような犯罪を平気で起こす人間が、
どんどん増殖していっているからです。ボクは、彼らが“わからない”。
というより、わかってはいけないと思うんです。なぜなら、
もしもいつか自分が凶行を起こす側に図らずも廻ってしまったとき、それが“言い訳”になってしまうから…。
“自分”原理主義者と掃き捨てることは、ボクにとって自戒の意味もあるのです。
平気で人を殺そうとする10代も、何人もの女性を監禁していたあの男も、少女を拉致して殺害した小林薫も、
小学生を8人殺して死刑になった宅間守も、もっと言えば、
郵政民営化の是非など二の次にして内輪で化かし合いを繰り広げている政治家たちも、
小泉も、石原慎太郎も、ボクにはみんな、“自分”原理主義者に見えます。しかし、
そんな“自分原理主義”の種は、間違いなくボクの心にも、そしてトンさんの心にも、あるんです。
“勝ち組・負け組”などというクダラナイ二極論が世間を横行するのは、
間違いなくこの現代日本において“自分原理主義”が肥大していっている何よりの証拠です。
わかってはいけないんです。その“種”の味が甘いとわかったら、自分もそうなってしまうんです…。
“わからない”とキッパリ言い切ることが、“自分原理主義”と闘う唯一の術なんです。
ボクは10代の感情云々よりも、そういうことを言いたかった……んですが、
上記の文章じゃ、それこそ、わかりませんよね…。
でも、今回こうしたコメントをいただいたおかげで、
自分の考えていることについて今一度自分自身で深く彫り下げてみることができました。
これこそ、ブログを書く者として、冥利に尽きるのひと言です。ありがとうございます。
まぁ、この加筆文についても、よく意味が伝わらないかも…という危惧はあるのですが…。
ではまた。