明徳義塾野球部員にも観てほしい!(バスケだけど) 『コーチ・カーター』

画像ボクの友人・知人のなかにも「教師」をしている者が若干いて、
都合を合わせて呑むたびに“現場の裏話”、
みたいなことをいろいろと聞かせてくれるんだけど、
こと「教育」の現場(“職場”としての)というのは、もちろん
“生徒と教師のコミュニケーション”がその主軸になっているとは言え、
ボクらが普段、映画やドラマやTVドキュメントからイメージするほど、
そればかりが中心になっている場所とは必ずしも言えないようだ。
要するに、彼らとて、けっきょくは教師である前に一介の“勤め人”。
その呪縛から生まれる“教師の世界”の複雑怪奇、
そんななかで日々格闘している彼らの抱えるストレスは、
もちろんボクら民間の勤め人の世界と何ひとつ変わらないとは言え、
やはりそこに、「教室」という究極の対人間的現場が絡んでくる以上、
数字という即物的な結果によってほとんど最終的なカタチを成す
いわゆる一般企業的なイメージの職種とは大きく違って、
その職業的ハードさにおいて計り知れないものがあるようだ。

まぁだからと言って、
彼らから聞き及んだ話のひとつひとつをボクが書き記したところでそんなものに意味はないので、
その職業的ハードさを示す細かな事柄についてはここでは割礼、もとい、割愛させていただくけど、
ただ、先日そんな友人のうちのひとりと話していてかなり印象的だったのが、
「昔は、“羊飼い”みたいな先生になるのだけは絶対によそうと思っていたのに、気がついたら、
俺も羊飼いみたいに、とりあえず生徒が群れからはぐれないように後ろから追い立てるだけの、
そんな先生になっていたよ…」という、かなり後ろ向きなひと言。もちろん、
彼がそんな教師、というより人間なんかでないことはボクは友人として充分承知しているけれど、
しかし、教師というそんな究極レベルの対人間的職種であってさえも、
その仕事の内容はどこかで機械処理的にならざるをえないというその根底には、
どうやらボクが思うに、
「教師」という職業の世間的な位置づけの時代的変容が大きく関与しているような気がしてならない。
つまり、「先生」と言えばボクらの頃は、
“親より偉い”という聖職と称される由縁の威厳をそれこそ親が“演出”していたものなんだけど、
今や先生をそんな風に思っている人、というより親なんてほとんどいないんじゃないのか?ってこと。
少しでも生徒に教師が手を上げようものなら、血相変えて親が抗議してくるというのはどうやら実情のようで、
それだけは是が非でも回避するようにと、彼らはとかく上の方から日々厳重に言い渡されているらしい。
まぁ確かに、自分の学生時代を思い出しても、
生徒に対する愛情というよりストレス発散で人の頭を殴っているとしか思えないクソ教師もいるにはいたけど、
でも、ある程度“からだで教える”ということ、もしくは“痛み”によってこちらの愛情を伝えるというのは、
教育の現場において絶対に必要なことなんじゃないかとボクは思う。
その痛みをどう受け止めるかこそが、こどもが成長してゆく上での何よりの礎のような気がするし、
そこでこどもを信じることができるかできないかで、教師としての道は分かれてゆくものなんじゃないだろうか?
まぁ部外者のボクがグダグダご託を並べたところで、彼らの苦労を分かち合うことなんてできないし、
そんなボクにしたところで、かつての恩師たちに本当の意味で感謝の念を抱いたのは、
それぞれの学校を卒業してから何年も経ってからのこと…。
具体的な数字などによって成果が得られるわけじゃない「教師」という対人間的職業は、
件の友人が言っていたように、なかなか「報われない」職業になっているというのが現状のようだ。

しかし、そんな軋轢と重圧のなかでも、
生徒の未来にとってより良い道は何か?と日々葛藤している彼らの仕事は、
ある意味で警察や消防以上に“命懸け”の、
とにかく“忍耐強さ”を一も二もなく要求されるハードな仕事であるようにボクは思う。
その場で焦らされると燃える典型的な“M体質”のクセに、
その前段階では我慢ができずすぐに女性に疎まれるタイプのボクには絶対にできない仕事だ。

で、いつものように前座が長くなったけど、
そんな「教育」というものの本当の意味と大切さを真正面から描き、
と同時に長い人生においていちばん必要なものはいったい何なのか?と観る者すべてに考えさせてくれる、
今どき珍しいくらい直球のメッセージに心打たれるこの時期にピッタリの映画がこの、『コーチ・カーター』。
実話を題材に作られた 『スクール・ウォーズ』 以上に熱いアメリカ製青春ドラマの傑作だ。

成績不振の高校バスケ・チーム“オイラーズ”のコーチを引き受けた、
スポーツ用品店を営む中年男のカーター(サミュエル・L・ジャクソン)。
彼は、自己中心的で粗野で、しかし様々な悩みを抱える生徒たちに厳しい課題を出し、
熱血指導でチームを劇的に立て直してゆく…。
とにかくこの映画の何よりのミソは、勉強やそのほかがまるでダメでも、
何かひとつ特技(スポーツ)があればこどもはそれでいいじゃないか、という、
従来のスポ根映画に対して「本当にそれだけでいいのか?」とアンチテーゼを提示して、
スポーツ以前に“学生の本分は勉強である”という、
主人公のモデルになった人物の信念をきっちりと映画の軸に据えていること。
ジャクソン演じるカーターは、
すべてのカリキュラムで一定の成績が得られなければバスケはさせないと生徒たちと“契約”を交わし、
そして実際に彼らのアベレージ以下の成績を知ったとき、
参議院での郵政民営化法案否決を受けて衆議院を解散してしまった小泉よろしく本当に体育館を
閉鎖してしまう。
しかしそこにあるカーターの真の想いは、バスケが強いからといってほかを甘やかした挙げ句、
バスケで勝っていた短い時間だけが彼らの人生のピークになってしまってはいけないという、
生徒のその先の長い人生を思いやるそれこそ長い目でこどもの将来を見つめる真に大人が抱くべき愛情…。
人生に少しでも輝ける一瞬があるのはそれはそれで素晴らしいことだが、
しかしその一瞬は永遠につづくわけではもちろんなく、
そしてその一瞬がその後の人生も輝かせてくれるというわけでは決してないのだ…。
いつだったか前も、かつてはドラフト指名で巨人に入団した選手が、
挫折して野球をやめてしかしけっきょく立ち直ることができずにタクシー強盗かなんかで逮捕されたという
なんともやり切れないニュースがあったし、
若い頃暴走族で鳴らした輩が、その頃の快感を忘れることができずにいい歳こいて再びバイクにまたがって、
スピード違反で逮捕されるという苦笑するしかないような話があったことなどを思い出すと、
カーターの主張には非常に説得力がある。
輝ける一瞬を持続させるためには、そのほかにおける地道な努力が何よりも大切なんだと彼は説く。
それと同時に、黒人社会を主観・客観、いろいろな側面から描いた映画は今までにも数多くあったが、
黒人社会の根幹に潜む“卑屈な感情”をここまで真正面から見据えてそこに楔を打ち込んだ映画も珍しい。
それがあるから、劇中で流れるヒップホップやR&Bのナンバーもはじめてドラマとリンクして活きてくる。
普段は何かに悩む姿なんてまるで似合わないサミュエル・L・ジャクソンも、
ほどよく抑制を利かせた“内(うち)”の演技でカーターの情熱と葛藤を味わい深く体現。
説教臭さのまるでない、しっかりした説得力でラストはグッと胸を熱くさせてくれる一級の映画に仕上がっている。
躍動感溢れる白熱の試合シーンも必見の見せどころだ。

「教育」の現場に携わる人、そして深く悩んでいる人、もちろん彷徨える当の10代、のみならず、
人生にとって何がいちばん大切なのかを今夜も迷っている現代を生きるすべての人に観てほしい、
駆け引きのない甲子園球児の直球ストレートのように好感度満点の1本だ。

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