報復の連鎖は止められないのか…? 『ミュンヘン』

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平和の祭典であるはずのオリンピックが、
卑劣なテロ行為によって打ち砕かれるという未曾有の歴史的惨事のニュースを、
今年で68歳になるボクのお袋は、当時新聞で知ったという。

幼稚園の年長で手がつけられないほどのワンパク盛りだったボクの兄貴と、
その事件のやっと2ヵ月前に生まれたばかりのボクを背負って、
なおかつ親父の商売の手伝いもしていたお袋は、
横目でニュースを見ながらも正直それどころではなかったらしい。
当時はもちろんインターネットもなければ、今のように、
TVが全局同じ事件を同じようにヒステリックに騒ぎ立てるということはなかったようなので、
茶の間まで届く世界の情報なんて今に較べれば限られたものだったらしいけど、
なによりTVや新聞をゆっくり座って見ている時間など、
当時のお袋にはまったく皆無だったという。

その年は、日本赤軍の浅間山荘事件や“テルアビブ空港乱射事件”、
沖縄本土返還日中国交正常化と、とにかく日本が大きく脈動していた年で、
さらにその翌年には、第一次オイルショックが各家庭をも直撃し、
あらゆる生活物価が高騰してゆくなかでふたりの息子を抱えてお袋は、
「この先、世の中どうなってしまうんだろう…」と、
毎日の生活が不安で不安でならなかったと言っている……。
(ちなみに今は、お前の将来が不安で不安でならないと電話するたびにボヤくので困る)

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1972年9月5日未明、
ドイツはミュンヘンで開かれていた夏期オリンピックの開催期間中に、
パレスチナゲリラブラック・セプテンバー(黒い九月)が、
選手村を武装襲撃するという事件が発生。
世界が見守るなか、選手・コーチ・大会役員を含むイスラエル選手団11人が死亡した。
パレスチナと、人質救出に失敗したドイツ当局をはじめ各国の対応にイスラエルは激怒し、
イスラエルの機密諜報機関モサドは、ゴルダ・メイア首相の決断のもと[報復]を決定。
テロの首謀者と目されるパレスチナゲリラ11名に対する暗殺チームが組織され、
そのリーダーに、モサドの一員アヴナー(エリック・バナ)が選ばれる。
“神の怒り”と名づけられた(当時)報復作戦のもと、
やがて、アヴナーはじめ4人のメンバーはゲリラ潜伏先とされるヨーロッパへと潜入し、
パレスチナに対する怒りと、イスラエルの正当性を胸に1人ずつ標的を消してゆく。
彼らは、その作戦のために存在そのものを抹消されており、
アヴナーも、愛する妻ともうすぐ生まれる我が子をイスラエルに残して任務に就いていた……。


自らもユダヤ人映画監督であるスティーヴン・スピルバーグが、
この事件をメタファーにして描いているのはおそらく(というより間違いなく)、
“対テロ”を大義名分に中東地域への強行を繰り返してきた現ブッシュ政権のもとのアメリカ。
9.11を拡大解釈して(というよりうまく利用して)、
イラク戦争にまで踏み切ったホワイトハウスの野蛮なやり方は、
まさしくこの映画、『ミュンヘン』 のなかのイスラエルの愚行そのものだ。

しかしスピルバーグは、事件について、
ここ30数年の間に書かれてきた様々な書物や語られてきた証言をモチーフに進められた、
綿密な取材によって得られた歴史の裏に隠されたその真相を、
政治的側面から過剰に描くことを避け(ボクを含めた頭の悪い観客にも話がわかるように)、
テロを決行する当事者(要するにテロリスト)のキャラクターを、
フィクションとして造形してその心情に肉薄することで、
現代世界の悲劇のほとんどの根幹、つまり、
“終わらない報復の連鎖”を支配している底ナシの虚しさを呵責なく徹底的に描き出してゆく。

極端に政治的な題材を扱いながら、
それを映画作家としての個人的なメッセージに置き換えて見せるその演出力は、
『シンドラーのリスト』 や 『プライベート・ライアン』 をも上廻り、
その、スクリーンから噴き出してくるかのような怒涛の作家的エネルギーに、
164分、一瞬たりとも目を離すことはできない。
売れっ子作家であるがゆえの製作期間の短さからくる作品としての若干即物的な雰囲気は、
スピルバーグという“個人”の抱える悩みやしがらみや心の弱さと解釈できないこともないが、
その作家としての拭い切れない必然的な苦悩は、
逆に執拗なまでに凝った残酷描写へとカタチを変えて昇華し、
映画をさらに暗黒的に包み込んでゆく。

温厚そのものの顔立ちが醸す彼の人間的なやさしさが、
実はそういった人体破壊描写に対する異様なコダワリに見られる、
内面の残虐性の裏返しだということをほとんどの観客は認識していない。
(前作、『宇宙戦争』 を批判した人はとくに)

言葉も話せば家族もあるに違いないただ“敵”というだけの自分と同じ人間を、
無下に殺してゆくたびに薄らいでゆく国家や民族の正当性と麻痺寸前の神経を抱えて、
報復がまた報復を呼び、誰かの命を狙えば次は自分の命が何者かによって狙われるという、
何を信じていいのかわからないまま永遠とつづく“殺戮の輪廻”のなかで、
しだいに自我を見失い狂気の深淵を彷徨い始めるアヴナーら非業のテロリストたち……。
そんな彼らの忠誠心と命を、国家や民族というイデオロギーをタテ前にコマとして軽く扱い、
他を威圧する目的だけのために派手派手しいテロ行為を指図する上層権力に、
どこの国家も民族も関係なくもはや高尚なイデオロギーや思想などというものは微塵もなく、
その野蛮なありさまは弱肉強食の動物的でまさにサル山のボスザルそのもの。

今までハリウッドは、
テロをモチーフにした映画を散々ボクらに見せてきたが、それはある意味、
“イスラエル=善、パレスチナ=悪”という思想を世界にプロパガンダするためのものだった。
(もともと映画を世界で初めて“商売”にしようと考え、ハリウッドを作ったのはユダヤ人)

そんなハリウッドのなかで、
イスラエル側のテロリストを主人公とすることで、
“イスラエル=アメリカ”にアンチテーゼを投げかける映画など今までなかったのでないか?
それだけでも、スピルバーグをはじめ、
この映画の製作者たちの勇気と信念は絶賛に値するとボクは思うし、
まるでヨーロッパ映画のように洗練され深みのある、
(それでいてアメリカ映画黄金の70年代を彷彿とさせるような)
ヤヌス・カミンスキー( 『シンドラーのリスト』 『プライベート・ライアン』 )の映像といい、
超が付くほど地味だけど実力本位で選ばれた超本格派の、
というよりもはやヨーロッパ映画としか言いようがないような魅力的なキャスティングといい、
これはスピルバーグの堕落し切ったハリウッドへの挑戦状であるようにさえボクには見えた。
(しかし、この映画はアメリカではヒットせず、今ではベスト10圏内にさえ入っていない……。
 スピルバーグは、多くの無理解なアメリカ人によって“報復”されたのだ!)

極論と言われるかもしれないが、
今、ブッシュが最も望んでいるのは、
世界のテロリストがテロリストであり続けてくれることだと思う……。
中国が内心では日本の政治家の“靖国参拝”を望んでいるのと同じ理屈だ。
(そうすれば、日本を攻撃することで内憂をごまかし続けることができるから)
きょうも、アメリカがテロ対策と称して5000人にも上る人間を監視してきたが、
まったくの見当ハズレだったというニュースをやっていた。
アメリカは、そういう救いようのない愚かな国なのである。

『ミュンヘン』 は、今度のアカデミー賞で、
作品賞、監督賞、脚色賞、編集賞、作曲賞の5部門でノミネートを受けているが、
そのほとんどをユダヤ系で占めているアカデミー会員が、
この作品にオスカーを与える可能性は極めて低いとボクは予想する。
それでもノミネートされているのは、
こういう題材を扱っているからといって無視はしない、という、
アカデミー賞の公平性をアピールするための“演出”なのではないだろうか?

ラストで、
エリック・バナ(熱演!)とジェフリー・ラッシュ(名演!)が交わす“食事”にまつわる会話こそ、
この映画のすべての本質……。
アヴナーは、愛する妻と娘とともに暮らしてゆけるが、
彼が心から平安を得ることはその先ずっとないのだろう……。
いったい“なん”のために、いったい“誰”のために、自分は人を殺してきたのか……!?
その苦悩が、彼が“国家の分”まで、
死ぬまで背負っていかなければならない巨大な罪の代償なのだ。

映画のなかのアヴナーたちの物語は史実にもとづいたフィクションだが、
生きていると仮定すれば、彼の娘は、ボクと同い年のハズである。
そんな、誰にも話せない深い苦悩を抱えた父のもとで、
彼女はいったい、どんな人間に育ったのだろう……?

ドラマの余韻に絡め取られてそんな想念を抱きながら、
冒頭の話を得るために、ボクは、実家のお袋に電話をした。

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