名優たちのアンサンブルに酔う感動群像劇、ただ… 『クラッシュ』

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宮益坂にさしかかる明治通りの交差点から渋谷駅の方を振り返ると、
俯瞰で見えるスクランブル交差点の人波の濁流の速さにいつもながら圧倒される。
東京ドーム一杯分で収まるぐらいの人口しかいない山間の田舎町で生まれ育ったボクには、
あの光景だけはいつまで経っても都会の壮観だ。
眺めながら、「よくまともに歩けるよなぁ…」とほとほと感心するんだけど、
ほんの1分前には自分もそこを“流れて”いたんだと思うとちょっぴり不思議な気持ちがする。
鬱陶しいなと感じつつもとくに誰かと肩と肩がぶつかるわけでもなく、
仮にカバン同士がぶつかってもあの人ゴミじゃあ当たり前、
少しムカッとするぐらいでお互い関わるわけでもなくそのまま通り過ぎてゆく……。

あんなにたくさん人がいるのに、ひとり残らず赤の他人。
センター街にたむろしている所在なげな若いコたちを心底羨ましいと感じるほどに、
出どころのわからない侘しさに身をすくめてしまうこともある。
いいじゃん、隣に誰かがいてさ。俺のケータイなんて、もはや“事務用”だぜ。

でも、
「東京は人が冷たい―」と、
今でもよく言われる言葉だし、昔から多くの歌がこれをテーマに人の心を掴んできたけど、
ボク個人としては、“東京は人が冷たい”と感じたことはとくにない。
どうしてかっていうと、東京には至るところに、
ボクと同じ地方出身者の敗残の匂いがこれまた所在なげに漂っているからだ。
東京は人が冷たいだなんて、
何をやってもうまくいかない日常のなかですっかり冷たくなってしまった自分の心を、
「東京」という街に投影しているだけの話なんじゃないだろうか……?
そしてその投影をいくらでも“赦す”のがこの街特有の懐の深さなんだと思うし、
だから東京には、これだけの人が集まってくるんだと思う。

東京は人が冷たいと言うなら、
ボクの生まれた東京ドーム一杯分の町だって、
そして名古屋だって、インドだってアメリカだってきっとどこも同じだ。
だからこの映画 『クラッシュ』 は、
複層的な人種社会を形成していまだ差別の蔓延するアメリカだけの問題に留まることなく、
差別することでしか自分を律することができず、
そして被差別意識によって憎悪を膨らませ他人の不幸を快楽にしてしまうボクら人間という種の愚かさ醜さを、
決して突き放すことなくやさしく見据えた普遍的なドラマとして観る者すべての胸にグイグイと迫ってくる。
好悪のハッキリ分かれる映画だとは思うけど、
人間関係の摩擦を怖れて他者を避けながらも、
避ければ避けるほどストレスだけが溜まってもはや心がグズグズになっている疲れた現代人にとって必見の1本だ。

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 クリスマス間近のLAのハイウェイで、
 相棒であると同時に恋人のスペイン系リア(ジェニファー・エスポジト)とともに事故に巻き込まれた、
 黒人刑事のグラハム(ドン・チードル)は、
 偶然、事故現場脇で発見された若い黒人男性の死体に引きつけられる。
 その前日の夜、街中では、
 自動車強盗の黒人青年2人組と、エリート検事とその妻の白人夫婦が、
 そして病の父を抱えた白人警官と、TVディレクターとその妻の黒人夫婦が、
 それぞれにトラブルを巻き起こしていた……。

グラハムは、
感情を素直にぶつけ合ってこなかったがために取り返しのつかないほどすれ違ってしまった家族のありさまを憂い、
黒人青年2人組は、
自分たちは白人から常に見下されていると卑屈になって、
たまたますれ違った白人夫婦に銃口を向けて車を奪い、逃亡の途中で韓国人男性を轢いてしまう。
その白人夫婦の妻は、
慌てて家の鍵を付け替えるが、鍵屋の男がヒスパニック系だったために、
「あの男は合鍵を誰かに売るに違いないわ」と疑って、翌朝また鍵を替えるの替えないのと夫と口論を始め、
その会話を背中で聞いていた鍵屋の彼はしかし何も言い返さず、
家に帰って、ベッドの下で怯えていた幼い娘に“天使のコート”の話を語って聞かせる……。

ほかにも様々な生活背景に生きる登場人物たちが、
ひとつの事故を始点と終点に何層にも重なり合いながら、
それぞれの内に抱える理由なき差別と憎悪を無様に露呈させてゆく。
しかしこの物語のなによりの哀しみは、
登場人物の誰ひとりとして決して悪人ではないということ。
ただ人間だったら誰もが持ち得る、
コンプレックスや偏見や差別や勘違いから起こる憎しみの感情が、
自分たちの意図していないところでいつしか複雑に絡み合って取り返しのつかない悲劇を生んでゆくだけなんだ。
その悲しみの構図はまさしく、
戦争、テロ、貧困、内戦、世界に存在するありとあらゆる悲劇の人間大の縮図……。
人口密度が高まれば高まるほど人間関係が稀薄になってゆくコミュニケーション不全の現代が抱える根深い問題は、
何も東京やロスに限ったことではない。

『ミリオンダラー・ベイビー』 の製作・脚本で注目されたこれが初監督作となるポール・ハギスは、
そんな人の世の哀しみの根幹を静かに見据え、時に憂いながら、
しかし登場人物の誰をも否定することなく、
それぞれの心情に大きく歩み寄ることで手に届く小さな奇蹟を彼らにもたらしてゆく……。
じっくり時間をかけて練り上げられた脚本と心のこもった演出は、
現代のアメリカ映画には極めて珍しく人肌の温かさを感じさせて感動的。
作者の苦悩と葛藤がリアルに伝わってくることだろう。

ただ、まったく問題がないというわけじゃない。
逆に言えば、テーマは前面に出すぎで、セリフに頼って作者の心情をかなり説明させすぎているし、
それに伴うスローモーションを多用した演出ややけに情感を煽りすぎる音楽が過剰に重たいのもまた事実。
要するに、ドラマの行間をある程度観る側に委ねるような“ゆとり”がなくて観ていてとても息苦しいのだ。
観客が様々な角度から感情移入できることが面白い群像劇としてはこの息苦しさはかなり辛い。
そしてその息苦しさが解放されるべきラストにしても、
登場人物のすべてが幸せになるわけではないので釈然としない思いが強く残る。
好悪が分かれると述べた理由はここだ。

だけど、
誰をとっても主役級の名優たちが織り成すアンサンブルはそれだけで入場料金に見合うほど観応え充分だし、
なにより、この映画からはありがちな“オスカー狙い”の計算高さまではボクには微塵も感じられなかった……。


きのう、外を歩いていたら、
向こうからずいぶん多くの荷物を台車に乗せた宅配のお兄ちゃんが歩いてきたのでよけようとしたら、
お兄ちゃんも仕事柄よけようとして、それでまたよけようとしたらまたお兄ちゃんもよけて、
それを3回も4回も繰り返すあまりのタイミングのよさに顔を見合わせた瞬間お互いに吹き出してしまった。
こんなときもあるけれど、人の世じゃ、親切が悪意にとられることもある……。
それをどうしたらいいのかなんてボクにはわからないけど、
少し、歩く速度をゆるめてみようかな、と、
田舎で暮らしていた頃の自分の歩幅を思い出そうとしてみたんだけど、
約束があったので、けっきょくいつものように、軽く人波をかわしながら早足で歩いてしまった……。

[ 日比谷 シャンテ・シネ新宿武蔵野館 にて公開中 ]

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