『ブロークバック・マウンテン』 がオスカーを逃がした本当の理由、それは…

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最近になってとうとう、
女より男同士でいる方がずっと気が楽だな、と強く感じるようになった(末期症状?)。
そりゃもちろん、女のコと呑みに出かけたりするのは楽しいし、
その後の展開に何もないとわかっていてもそれはそれでワクワクするモンだけど、
それよりも最近は、男同士でいることの安堵感にこそ憩いを求めるようになった気がする。
少し前までは、それこそ女のコを誘うことばかり考えていて、
仮に男同士で呑んだとしても、その後に、
おネエちゃんのところへと繰り出す算段で頭はイッパイみたいなところがあったハズなんだけど、
歳を喰っちまったんだろうか…? ついこないだも仲間数人で呑みに行った際に、
「○○さんて、女とか必要なさそう。ってゆうか男好きそう」などとストレートに言われてしまい、
「そんなことないよ!」と一応は否定しておいたものの、
あながちそれも間違っちゃいねぇな、なーんて思ってしまった。“やもめ”がつづくと苦労する。

ボクは現在、東京に暮らしていて、
そしてワリと近郊に、15歳の頃からの(つまり田舎の)友人が1人いるんだけれど、
“付かず離れず”で長く付き合ってきたせいか、彼とは非常に居心地が好く、
互いの暇を見つけては(まぁボクはいつでも暇だが)、
ここ何年かは、できる限りひと月かふた月に1回のペースで街へ繰り出すようにしている。
さすがに忍び19年、死して屍拾う者なし。
互いのオナニー殺法とクラスの誰が“ズリネタ”かを教え合っていた頃からの腐れ縁なので、
話を始めれば“打てば響く”、しかし話題尽きることなく(主にボクが話し手、彼が聞き手)、
もちろん女相手より会話の往来はスムーズで、下ネタの間合いもタモリ倶楽部のそれ以上、
夕刻あたりに呑み始めればアッという間にそろそろ終電、なんてことも少なくはない。

でも、ボクが20代の半ばに脱サラして以来、
相変わらずその日暮らしを送っているのとは反対に、
彼は結婚して、家も買って、さらには1年前に家族も増えて、
以前のような月一ペースではさすがに呑みに行かれなくなってしまった……。そして、
ボクと違い人に誇れる職業に就いている彼は、その分抱えるストレスも相当なものらしく、
今までに見せたことのないような、やつれ切った表情を最近になって見せるようになってきた。
対するボクはといえば、金も車も家もなく、将来性も極薄な代わりに、
好きなだけ映画を観て、タマには女と気ままに遊んで(ホント、タマに)実にイイ気な暮らしぶり。
もちろんボクだって、こんな生活に決して充足感を覚えているワケなんかじゃないけど、
「家のローン抱えて、子育ても大変、仕事も辛い、で、そんなに疲れていいコトねぇじゃん!」
と、彼の生活にいつか来る自分の将来を感じて幸せに憧れる、なんてことはあまりない。
だけど、そこで彼は言う。「こればっかりはさぁ、しょうがないんだよ…」と……。
何が“こればっかり”なのか、そして何が“しょうがないのか”、
さすがにボクだって30も過ぎてガキではないのでその意味するところは重々理解できるけど、
理解できるけど…そこでいつもボクの思考は、一時停止の状態になってしまう。

男は、いい仕事に就いて、いい歳になったら結婚して、そして幸せな家庭を作るモンだ―。
それが歴史の礎とわかってはいても、こういう価値観は、いったいいつからのものなんだろう。
ボクはそれから逃れたくて独り東京に暮らしているようなところがあるし、
逆にボクの友人は、その従来的な価値観に一抹の違和感を覚えながらも、
それが自分の選んだ人生だからと、あえて茨の道を孤高に分け進んでいる。
しかし、一見相対するようなボクと彼の人生航路においても、
たった一つだけ、大きく共通している部分がある。
それは、彼にしても、そしてボクにしても、
同様に世の価値観や世間体といったものにどこかで縛られながら生きているということ……。
“それ”から逃れて生きてゆく自由なんて、本当は、この世のどこにも存在したりしないんだ。
何も男ばかりじゃない。もちろん女たちだって同じだろう。
いくら“負け犬”と開き直ったって、それがまた足枷となり自分の足を傷めてゆく。
もがけばもがくほど、蛇の皮が太陽に炙られてジリジリと絞まり続けてゆくように……。
男も女も関係ない、既婚も未婚も関係ない、子供がいようといまいと関係ない。
そして人は、自分が作ったワケでもない価値観や世間体に縛られ生きているものだから、
それから外れていこうとする他者を見つけると、ここゾとばかり矢持て石持て非難を始める。
そうして嫉みは偏見を生み、差別を助長し、それはさらにあらゆる諍いへと拡がってゆく……。
それでもそうした価値観から逃れて生きてゆこうとする者に待っているのは、
煉獄のような果てのない孤独、ただそれだけ。

この 『ブロークバック・マウンテン』 は、
周知の通り“同性愛”を描いた至高のラブ・ストーリーとして数々の映画賞に輝いているが、
しかし今作は、許されぬ同性愛の行方を描くだけがテーマの作品なんかではない。
これは、人間が呑み込まれるしかない雄大な大自然をそのメタファーにして、
人が価値観から逃れ生きてゆくことの窮屈さを沁みる繊細さで描いた本年屈指の大傑作だ。



 1963年、アメリカはワイオミング州ブロークバック・マウンテン。
 定職のないイニス(ヒース・レジャー)とジャック(ジェイク・ギレンホール)の2人は、
 羊放牧の仕事を得て、この山でひと夏を過ごすことに。
 移ろいやすく厳しい大自然の中で、互いを援け合って日々を重ねてゆく内に、
 いつしか彼らの孤独な心は、深い絆で結ばれてゆく。
 しかしその友情が、ごくごく自然に男同士の“許されない関係”へと変化してゆくのに、
 さほどの時間はかからなかった……。
 今よりも保守的な時代、そしてアメリカ内陸の排他的な土地で、
 互いに伴侶を得て、それぞれに子供を授かりながらも、
 20年もの永きにわたり誰にも理解されない愛情を密かに育んでゆくイニスとジャック……。
 しかしやがて、厳しい社会の現実が、2人の関係に暗い翳を落とし始める……。

“カウボーイ”といえば、
アメリカにおいてそれは一般的に“男”、そして“男の人生”を象徴してきたスタイルだが、
この映画の中では、それが従来型の価値観や世間体、
そして、“しがらみ”を意味する皮肉なメタファーとして機能している。
イニスとジャックもそれに倣い、立派なカウボーイを志して生きてきたが、
現実の彼らに職はなく、映画で見るようなカウボーイのカッコよさにはほど遠い。
要するに、彼らは人生の“負け組”なのだ。
そんな2人は、まるで自分たちしかこの世に存在しないかのような壮大な自然の袂で、
互いを援け合い、そして戯れるウチに、
相手の心に一時の連帯感や友情だけでは括れない“何か”を強く感じ合い始める。
外は凍えるような寒さの夜のテントの中、
2人がついに一線を越えて体を交わすシーンは、その生々しさ以上に、
まるで心に欠けているものを互いの体を貪ることで補い合っているかのように見えて、
痛く、そして途轍もなく哀しい。

イニスは、どちらかといえば、
従来型のカウボーイのイメージになんとか自分を当て嵌めようとするワリに古風なタイプだが、
対するジャックは、どこかそのイメージに抗って自由に生きてゆこうとする先進的なタイプだ。
その2人の対比が最後まで、映画の軸になってゆく。
ジャックは窮屈なしがらみなんて捨て去って、2人でやっていこうといつも提案するが、
イニスはそれを心の底では強く望みながらも、「それは無理だ」と絶対に一歩を踏み出さない。
そしてその違いが、さらに彼らを人生の苦悩の淵に追いやってゆくんだけれど、
しかし、そうだったからこそ、彼らの関係は20年もの永い間つづいていったんだとボクは思う。
もしもそうでなかったら、2人は最初に山を下りた時点で二度と逢いはしなかっただろう。
もしかしたら、その方がジャックにとってもイニスにとっても幸せであったかもしれないのに。
互いを窮屈なしがらみから解放し合える存在に出逢ったというのに、
その僥倖が、今度は2人を縛り付けてゆくという残酷な皮肉……。
男と女、男と男、女と女、人種の違い、国籍の違い、パターンはそれぞれあるけれど、
しかし“いくつもの障害を乗り越えて愛を深めてゆく”系の恋愛映画の要は常にここだ。

そして、いつの時代も変わることなく、
なんとか夢や理想に生きてゆこうと無理をしたがる男という種を、
“現実”という名の巣になんとかつなぎ止めておこうとする女という種の闘いも、
この映画ではもう一方の軸としてキチンと用意されている。
イニスとジャックがそれぞれ家庭を持っているという設定が物語に深みと説得力を持たせた。
イニスの妻を演じるミシェル・ウィリアムズと、
ジャックの妻を演じるアン・ハサウェイの2人もまた対照的。しかし、ここでも女は強い……。

たとえしがらみや世間体を捨てたことで孤独の深淵に追い詰められたとしても、
たとえ世の中から冷たい視線を向けられて自分の味方がただの1人もいなくなったとしても、
心の中に確かな“何か”があれば、人は、涙に暮れながらでも生きてゆくことができる……。
ラスト、涙を堪えながら噛み締めるようにつぶやくイニスの最後の言葉をもって、
彼はついに、孤高のカウボーイとなる……。



カナダに負けたアメリカや、中学生に負けたチーム青森ほどの番狂わせではなかったものの、
この 『ブロークバック・マウンテン』 が本命と言われていた今年のアカデミー賞は、
周知の通りポール・ハギス監督作 『クラッシュ』 の逆転受賞という結果になった。
確かに、『クラッシュ』 は、
作者の訴えることも素直で良心的な、誰の胸にも届くすべての現代人必見の映画だと思うし、
だからこれがオスカーを獲ったことにあえて異を唱えるつもりはない。
でも、俳優陣の演技のレベルの質といい、アン・リー監督の非の打ちどころのない巧さといい、
映画のテーマを逆説的に浮き立たせるために機能しつつも、
深呼吸したくなるようにスクリーン以上の雄大な広がりを感じさせる珠玉の映像美といい、
自然に、さりげなく、しかし胸に沁みていつまでも心に残るニューシネマ的な音楽といい、
あらゆる面において1本の映画として観た場合、
テーマが前面に出すぎて奥行きには欠ける前者より後者の方がレベルが断然上なのは、
誰が観たとしても明らかな事実である。
しかし今作が、最後の最後で作品賞を逃したというのは、
これが“強いアメリカ”の象徴たるカウボーイを同性愛の対象として描き、
しかもそれが実はアメリカの本質である“内部アメリカ”の旧時代的な部分を、
“外国人”に暴かれたということに対する理不尽な拒否反応であるとしかボクには思えない。
作品が認められずに監督賞だけ与えられたところで、
そんな矛盾に作家が心からよろこべようハズもない。

ハリウッドはかつて、『グリーン・デスティニー』 でアン・リー監督を認めたが、
あれはもはやハリウッドに中国語圏映画人の存在は欠かせないという当時の流れだったし、
なにより 『グリーン~』 は東洋テイスト全開の生粋の中国アクションだった。
それに、監督が 『グリーン~』 の前に手掛けた 『楽園をください』 という佳作が、
アメリカ史最大の恥部の一つである、
“南北戦争”の醜い現実を描いたことで無視されたというかつての経緯をも考え合わせれば、
今回もそれと同じパターンと推測することができるのではないだろうか?
『ミュンヘン』 に対するあからさまな拒絶反応といい、これといい、
ボクにとっては 『クラッシュ』 が聞いて呆れる結果としか言うことができない。
…まぁ、それはいいとして……。



最後に、今回、ボクがなぜ冒頭で友人の話を持ってきたのかというと、
かつて高校時代、ボクらはあまりに仲が良く、一緒に行動することが多かったことから、
クラスの女子から、「あの2人、ホモなんじゃない?」と噂されたことがあったからだ。
まだまだ若かったボクらは、当時それを必死になって否定していたことを今想い出すけど、
仮に今、あの時と同じことを言われたとしたら、
「そうだよ。俺がタチ(男役)、彼がネコ(女役)。それが何か?」ぐらいのことは言うに違いない。
忙殺されそうな毎日を送っている彼とは今年になってからまだ一度も逢っていないが、
先日久しぶりにメールをしたら、「何度かくじけそうになったが、なんとかやっているよ」
というたくましい返事が返ってきた。彼はカウボーイだ。ボクは…どうだろうか…?

月末に、久々に呑むことになっている。



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