“愛してる”って、素直に言える??? 『ウォ・アイ・ニー』

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「好き」とは言えても、
「愛してる」とはなかなか言えない。
もちろん個性にもよるだろうけど、日本人はだいたいそうだと思う。
それはどちらに愛情表現としての重みがあるかという問題よりも、
「好き」と違って「愛してる」は、極めて“文語的”な表現だからだ。
ほかの言語についてはよく知らないし、パッといくつか例を挙げられるわけでもないんだけど、
日本語はわりと“口語”と“文語”で受け取る印象の違いがハッキリしているから、
「愛してる」は文章や歌の歌詞とかだったらまるで違和感がなくても、
いざ口に出して言うとなるとやけに浮ついた不自然な感じに響いてしまう。
昔から、日本の映画やドラマの現代劇に不自然なものが多いのは、
おそらくこの口語と文語の違いのせい。
それに、感情をストレートに出さない(または出せない)のがボクら日本人の特徴でもあるから、
「愛してる」なんてとてもじゃないけど(心のなかではどれだけ相手を愛していても)、
おいそれと気どった感じで口にすることはできない(イタリア人じゃあるめぇし)。

実際ボクも、30数年の人生のなかで、
付き合ってる女(数は少ないですがな)に向かって「愛してる」なんて言ったことはないし、
多分、言われたこともないと思う。
だけど、「愛してる」とまでは求めないまでも、
やっぱり女は、たとえ交際(結婚)年月が何年であっても、
愛情表現をその都度コトバにして言ってもらいたいものらしい……。
確かに、自分の彼女や女房にいつまでも若く、キレイでいてほしかったら、
面倒がったり恥ずかしかったりせずに“そういう”コトバをかけてあげるのが、
女たちにとってのなによりの美容の秘訣であるような気はボクもするし(今イイこと言った?)、
逆に男はプライドで生きている動物だから、「この人、ダメだな」と思っても、
男がプライドを保っていられるようなコトバを女がかけてあげればそれで万事オーケーだ。
言葉のいらない愛もあるけど、やっぱり言葉は重要ってこと(なんか朝日新聞みたい…)。

そんななか、恋愛映画、
とくに現代劇の恋愛映画というイメージからはほど遠い感じのする中国から届いたのが、
上の写真も思わせぶりな“リアル恋愛会話劇ドラマ”、『ウォ・アイ・ニー』
ところがコレ、ボクはテッキリ「愛してる」ってひと言を求めたがる女と、
それをなかなか口にしようとしない男とのささやかな丁々発止を描いた映画だと思っていたら、
ちょっとビックリするぐらいサスペンスフルなドラマに仕上がっていて少々面喰らってしまった。

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 結婚間際に突然、
 婚約者を不慮の事故で亡くしてしまったシャオジュー(シュー・ジンレイ)は、
 その親友だったワン・イー(トン・ダウェイ)に慰められるうちに彼のことを好きになり、
 そのまま愛し合うようになったふたりは先を急ぐように結婚する。
 しかし、常にクールな態度をとろうとするイーとの愛情表現に温度差が目立ち出すと、
 “愛されたい”と強く願うシャオジューの愛情表現は、しだいにエスカレートしてゆき……。

監督は、“中国第六世代”のなかでも、
反体制の旗頭として国際的にも非情に高い評価を得ているチャン・ユアン。
各種宣伝のイメージから今までとは違ったやわらかい作風を勝手に想像していたが、
従来どおり、“天安門広場”の日常を淡々とスケッチした 『広場』(1994)や、
モーレツ英語教師の全国行脚を捉えた 『クレイジー・イングリッシュ』(1999)などで見せた、
ドキュメンタリー作家としての鋭い視線と確かな手腕に、
ヴェネチアで受賞した 『ただいま』(1999)の大陸的叙情性とを併せ持った、
まるで“恋愛ドラマ版 『東宮西宮』”(1996)とでも言うべき、
スクリーンから一瞬たりとも目が離せない鬼気迫るシャープな会話劇を見せてくれている。

婚約者の死をキッカケにしてその友人とデキてしまうというのは、
不謹慎ではあるがありがちと言えばこのテのドラマではありがちな話。ただ、
たとえ人の死が結んだ愛とはいってもそれが長続きするとは限らないのが恋愛上のリアル。
片や婚約者を失った寂しさ、片や友人を偲ぶ想いと一時の情(しかも友人の彼女は超美人)。
盛り上がるのも早ければその客観性にクールダウンしてゆくのも早いのは仕方がない。
イーはやがて、早々にその気持ちを態度に出し始めるが、
しかし一方のシャオジューは、それを絶対に許そうとはしなかった。
女からすれば、イーは極めていい加減な“その時だけ男”のように見えるだろうが、
男からすれば(あるいは女からも)、シャオジューの愛情表現もまたどこか偏執的に思える。
この一度や二度、恋愛または結婚したことがあれば誰でも身につまされる男女のギャップが、
映画の軸となって観る者をふたりの会話のやりとりにグイグイと引き込んでゆく。面白い。
とくに圧巻は、監督が主演のふたりにシナリオなしでやらせたという、
中盤あたりで始まる口ゲンカのシーン。
その終わりのない堂々巡りの言い合いは、まるでイデオロギーとイデオロギーの戦争みたい。
“恋愛”は、どんなコメディ映画よりも滑稽で、
どんな戦争映画よりもスペクタクルで、そしてどんなサスペンスよりも緊張感に充ちていて、
笑いはやがて苦笑いへと変わり、
それもやがては引きつるような表情へと自然に変わってゆくのが自分でもわかるだろう。

(実は、ボクはかつて、“重度の被害妄想質”の女性と付き合ったことがあり、
 ケータイはいつしか“子機”にされ、いつの間にかボクの鍵が“合い鍵”になり、
  体に生傷の絶える日とてなかった。今思えば、あれは無間地獄のような日々だった…)

でも、この話はまだ書きたくない。

閑話休題。
そんな風に、しだいにエスカレートしてゆくシャオジューの愛情表現なんだけど、
実はラスト近くになって、その偏執的な彼女の人格にあるひとつの“理由”が与えられる。
それはもちろん、説得力の充分あるしかもかなりヘビーな理由なんだけれど、
果たしてこの映画にそれがどうしても必要だったかは若干疑問が残るところ。
それはこの映画を観た、アナタの判断に委ねられる……。

中国四大女優のひとり(ほかの3人は、チャン・ツィイー、ヴィッキー・チャオ、ジョウ・シュン)、
シュー・ジンレイの美しさと可愛さのアンバランスな(今作では)魅力に男は全員イチコロ必至。
独りで観に行くのもいいけど、カップルで観たならその後の会話がある意味で弾みそう(?)。
硬質な中国第六世代映画に免疫のない人でも興味深く観ることができる恋愛映画の傑作だ。

でも、シュー・ジンレイが相手だったら、ケータイを子機にされたっていいのになぁ~。

[ 恵比寿 東京都写真美術館ホール にて4月14日まで公開 ]

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