目がくらむほど衝撃の残酷度! ただ… 『テキサス・チェーンソー:ビギニング』

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“悪魔のいけにえ”―。
そっとそう、静かに口にするだけで、
郷愁とともに心が凪のように落ち着きながらも、
よくよく考えればかなり安易な邦題ネーミングを施されたこの映画は、
しかし、時代を超えていまだに(そして永遠に)色褪せることのない、
猟奇殺人鬼系ホラー映画の金字塔的大傑作であると同時に、
ボクを、ホラー映画の底知れない魅力の渦のなかへと、
それこそ“レザーフェイス”に屠殺場へ引きずり込まれバタンと扉を閉められるが如く、
否応なしに引き込んでくれた記念碑的な作品だ。

実はボクは、今じゃ信じられないことだけど、
19か20歳くらいの頃までホラー映画はまったくの苦手ジャンルで、
『ロボコップ』 でピーター・ウェラーが“蜂の巣”にされるシーンや、
クライマックスで、悪人の1人が硫酸でドロドロに溶けるシーンだけでも目を背けるほどだった。
なぜかと言えば、その原因は小さい頃のトラウマ。
ボクが生まれた70年代というのは、いわゆるオカルト・ホラーの全盛期で、
それこそビデオが爆発的に普及する80年代中庸くらいまでは、
TVの洋画劇場でフツーに 『オーメン』 や 『エクソシスト』、
それに 『ゾンビ』 やアルジェントの 『サスペリア』 を代表とするイタリア製の残酷ホラーが、
ゴールデンタイムと言わず夜中と言わず、
なんの躊躇もなしにバンバン放送されているような素晴らしぃ時代だったんだけど、
その頃まだ小さかったボクは6コ上の兄貴の背中でそれらを見ては本気で怖がり、
けっきょくそれがトラウマになってビジュアル的な恐怖がすっかり苦手になってしまったのだ。

だけど、大きくなり思春期に入って、江戸川乱歩や夢野久作を読むようになり、
そして音楽じゃ筋肉少女帯人間椅子等を好んで聴くようになると、
だんだん自分のなかにオドロオドロと禍々しぃものや残酷な描写に、
強烈に心惹かれる部分があることを自覚するようになった―。
しかし、それはやっぱり活字や音から想像される世界に耽溺するというぐらいに留まるもので、
スプラッターのようにモロにビジュアル化されると、見たくても見られないという状態だった。
実はボクが、観れないんだけどホラー映画に興味を持つようになった経緯には、
その「筋肉少女帯」のヴォーカル、オーケンこと大槻ケンヂの影響がかなり大きいんだけれど、
その“筋少”の代表曲であり大名曲でもある「釈迦」というナンバーのビデオ・クリップが、
なんと 『悪魔のいけにえ』 をモチーフにして、
オーケンがメンバーを1人1人チェーンソーで殺してゆくというものだったのだ(かなり必見!)。

大学に入り“映画好き”を自認するようになって、ホラーにもひと言、みたぃな顔はしつつも、
キューブリックの 『シャイニング』 さえ布団をかぶらなければ観られなかったヘタレの当時。
ホラーに対する偏愛の芽は日に日に大きくなってゆくのに直視できないというジレンマ……。
世相は’89年の宮崎勤事件の煽りを受けて理不尽なバッシングがつづく“ホラー・冬の時代”。
ホラー・コーナーなんてレンタル店の奥の奥のそのまた奥に追ぃ詰められて絶海の孤島状態。
だけどホラーを観なければ映画を語る資格はないとヘンな使命感に取り憑かれていたボクは、
ある日、初めてコンドームを買った時と同じぐらいの緊張感で 『悪魔のいけにえ』 を手に取り、
目を伏せるようにして借り、家に帰って、部屋は明るくしたままで観て、そして……興奮した。
それは初めて“男”になった時、そして初めてインドの土を踏んだ時と同じくらいの感動だった。
バゥーン!バゥーン!と空を裂くレザーフェイスが振り廻すチェーンソーの渇いた唸り声と、
ヒロインの泣き叫ぶ金切り声がいつまでもいつまでも耳について離れなかった……。
熱い興奮で火照ったカラダが、いつまで経っても冷めなかった……。“開眼”というヤツだった。

しかし、何もボクはただ残酷なシーンだけに愉悦を覚えたというワケじゃない。
『悪魔のいけにえ』 を一度でも観たことのある人だったら周知のとおり、
実はこのオリジナルは、一般に思われているほどいわゆるスプラッターぽくはなくて、
とにかく全篇を覆っているのは、途轍もなく渇いた底なしの狂気。
だけどその渇いた狂気に包まれたこの映画は“メジャー”、
ひいては時代に噛み付くような反骨のインディーズ精神に溢れていて、
それはどこか青春の鬱屈の昇華にも似て、そこにボクは大いに感化されるものを感じたのだ。
インディーズ映画が青春映画だという側面をこの1本もまた内包しているとボクは思ったのだ。

だから、ホラー映画の一大金字塔であると同時に、
そんな、時代を象徴するインディーズ映画の名作でもあるこの 『悪魔のいけにえ』 を、
よりによって、『アルマゲドン』 のマイケル・ベイがプロデュースすると知った時には、
「ふざけんな!」という想いでいっぱいだった。きっと多くの人がそうだったと思う。
しかし、フタを開けてビックリ。自分じゃロクな映画を撮れないベイがどこぞの新人に撮らせた、
『悪魔のいけにえ』 の現代版リメイク 『テキサス・チェーンソー』 は、
当然、オリジナルには遠く及ばないもののしかしオリジナルへのリスペクト精神に溢れた、
今の時代にもしっかり通用する娯楽スプラッターとして成立しているなかなかの力作だった。
その後に公開される 『ゾンビ』 のリメイク、『ドーン・オブ・ザ・デッド』 に較べて遥か上のデキ。

そんな前作と同様にマイケル・ベイがプロデュースをし、
『悪魔のいけにえ』、『テキサス・チェーンソー』 のつまりは前日談を描いて、
そして時ならぬ昨今の“スプラッター・ブーム”に乗せさらなる過激さを増したと前評判の本作、
『テキサス・チェーンソー:ビギニング』 ……。とかくスプラッター系が猛威を振るった2006年。
どんな新シリーズを見せてくれるのか、当然期待に胸を膨らませて観に行ったんだけど、
そのあまりに衝撃の残酷度は、かの 『ホステル』 さえ超えるとにかく強烈なものだった……!!!

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 1939年8月、
 生後すぐに捨てられた畸形の赤ん坊がゴミを漁っていた女に拾われる。
 トーマスと名付けられたその赤ん坊は、ヒューイット一家によって育てられるが、
 やがて精肉処理工場で働き始めた彼は、工場が閉鎖された鬱憤から工場長を惨殺。
 一方、テキサス縦断旅行に出ていた、クリッシー(ジョルダーナ・ブリュースター)たち4人は、
 保安官を惨殺してそのまま保安官になりすましたトーマスの叔父、
 チャーリー(R.リー・アーメイ)によって拉致されてしまう……。

映画の原題である「テキサス・チェーンソー大虐殺」の元ネタが、
猟奇犯罪史史上、有名なエド・ゲイン事件ということはよく知られた話だけど、
“前日談”とは言え本作はその経緯についてアレコレと語るワケじゃなく、
あくまでそこは“レザーフェイス”という稀代のキャラクターの誕生秘話を端的に示すに留まり、
あとは殺人鬼一家の迷宮に彷徨い込んだ4人の若者がなぶり殺しにされてゆく過程を、
これでもかと言わんばかりの徹底した残酷描写で不快感もマックスに描いてゆく。
とにかく、その容赦のない救いのなさは強烈のひと言で、
なまじ4人のなかの兄弟愛やカップル間の愛情を描いているだけにそれはとことんと際立ち、
大虐殺の前日談なので助かる人間は1人もいないとわかっていても、
鑑賞後の余韻は途轍もなくヘビーでその絶望感はベッタリと皮膚にまとわり付いて離れない。
それはこのテによほど免疫がない限り興味だけで観るのはよした方がいいとさえ言えるほど。

しかし、逆に言えば、そこまで残酷描写ばかりが際立つのは、
それ以外のストーリーに関する部分に、あまりにも観どころがないということで、
前作の名キャラクター、R.リー・アーメイ演じるチャーリーが“ホイト保安官”になった経緯など、
『テキサス・チェーンソー』 の前日談にはなっているが、
とくにそれが映画の吸引力にまでなっているワケじゃない。
全体的な印象を言えば後半に至るまでの展開はかなり冗漫で、
ビジュアル・ショックに甘んじているという印象を否定はできないし、
とくにラストを観ればわかるとおり既存のホラー映画的展開に乗じて、
工夫を怠ったという手抜き感はどうしても拭えない。
確かに、見た目の刺激だけはオリジナルや 『ホステル』 を超えているかもしれないが、
やはり、オリジナルの“狂気”には到底敵うことはできないし、
『ホステル』 の圧倒的なストーリーの面白さに較べると本作のそれはどうしたって物足りない。
さらに個人的な欲を言えば、ジョルダーナ・ブリュースターとディオラ・ベアードという、
これほど極上の巨乳美女を配しておきながらこのエロ度の低さはなんとしても不満が残る。

だけど、ハリウッドA級の予算をかけてここまでスプラッターにこだわったという点じゃ、
ホラー映画ファンとして、マイケル・ベイの功績を素直に認めなくてはいけないと思うし、
かくなる上は本作を上廻る究極ホラーを作ってほしいとそう切に願うばかりなのである。

というワケで、諸々不満は残るもののビジュアル・ショック的カウンターパンチはド強烈の1本。

しかし、それでもまだまだ喰い足りない今や骨の髄までホラー・ファンのボクは、
ツ○ヤ半額で再び 『悪魔のいけにえ』 を借りて観て、渋谷へ再び 『ホステル』 を観に行って、

今宵、孤独な身の上を、無上のエクスタシーで慰めるのであった……。

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