シュヴァンクマイエルのキメラ(幻想)的世界 『ルナシー』

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“精神病院”が舞台の、“自由”をテーマにした映画―。
と聞いて思い出すのはアメリカン・ニュー・シネマの名作、
名匠ミロシュ・フォアマンの 『カッコーの巣の上で』(1975)。
そう、フォアマンもシュヴァンクマイエルと同じくチェコの映画作家だ。
ボクがチェコという国を好きになり旅先に選んだ大きな理由のひとつには、
やはりシュヴァンクマイエルに興味があったということが挙げられるワケだけど、
プラハへ行った時はせっかく街外れの小洒落た劇場で 『悦楽共犯者』 がかかっていたのに、
タイミングがズレて観たのはお隣・スロヴァキア製の女刑務所を舞台にしたドラマだった……。

チェコには、テルチという、街並みがまるで芝居の書き割りみたいで可愛らしい、
『ホステル』 の撮影地にもなったチェスキー・クルムロフに並ぶ有名な観光地があるんだけど、
そこは、独り暮らしをしている身ぶりのいい初老の女性やなんかが、
自宅の空いた部屋を旅行者に貸して小銭を稼ぐのが慣習(?)になってるようなのん気な町で、
ボクもバックパックを背負って、ツーリスト・インフォメーションをブラブラしていたら、
品のよさそうなオバサンにスカウトされて、数日家に泊めてもらった。
とにかく小汚い安宿ばかりに泊まり歩いて旅行をつづけていたので、
旦那さんがアメリカで儲けているらしいオバサンの家はボクには豪華ホテル並み。
「今日はここへ行きなさい」「明日はここへ行きなさい」と、
そこはチョット自分の好きにさせてほしいな、とは密かに思いながらも、
毎日言われるままにあちこち観光しまくっていた(旅先でもなまじ人の世話になると気を遣う)。
ある晩、オバサンが「タカ、食事に行きましょう」と誘うので近所でいっしょにピザを食べ、
彼女のお気に入りというコースを、とりとめもない話をしながら散歩している時に、
案の定、話は映画の話題へと移っていった。
「タカ、知ってる? ミロシュ・フォアマンは、チェコの作家なのよ」と彼女が水を向けてくるので、
ボクが 『カッコーの巣の上で』 や 『アマデウス』 を挙げると我が意を得たりとご満悦。
しかしすかさず「でもでも、チェコにはシュヴァンクマイエルもいますよね!」と言うと彼女、
フッと鼻で笑い、「そうね、そんな作家もいるわね」となぜか話はクールダウンしてしまった。

まぁ、彼女のステイタスや雰囲気からして、
シュヴァンクマイエルを好きなワケはないと端から察しはついていたんだけれど、
とにかくボクにとり“チェコ”と“シュヴァンクマイエル”はワンセット。
チェコと言えば、パペット・アニメが有名というのは日本でもワリと定着した話で、
しかし、なにゆえ彼の地(ヨーロッパの、ちょうど“ヘソ”のあたり)の風土が、
そうした文化を生み出しえるかについてまで語る言葉をボクは持ち合わせていないんだけど、
しかしチェコ、とりわけプラハを歩いてメインストリートじゃなく裏路地などに一歩迷い込めば、
暗色を醸すくすんだ石畳の道の脇にいきなりポツネンと古時計屋が軒を開けているなど、
それはもう“シュヴァンクマイエル的”としか言いようない淫靡な空間が広がっていて、
まるで彼の施すゼンマイ仕掛の悪夢の中を彷徨っているような錯覚を覚えることしばしばだ。

『アリス』、『ファウスト』、『悦楽共犯者』、『オテサーネク』、そして数多の短篇アニメと、
生み出すすべての映画が超が付くほど独創的かつ挑戦的で、
日本でもカルト的人気を誇るヤン・シュヴァンクマイエルのこれが最新作、『ルナシー』
イマジネーションという“自由”を武器に常に挑戦的作風の映画を撮り続けてきた彼が、
共産時代、体制側に目の敵にされていたのは当然、言わずもがなだけど、
グローバル化が進む一方、違った意味で個人の“自由”の抑圧が進む現代にあっても、
彼の真の“自由”を勝ち取るための戦いはまだまだ終わったワケじゃない。
『ルナシー』 は、価値観の多様化が逆に混迷を生みその打開策として、
すべての均一化が進められる窮屈な現代のなかで本当の精神の“自由”とは何かを問う、
彼、言うところの“哲学的ホラー”映画。なぜホラー???
それは、真の“自由”を手に入れたその果てには、想像を絶する恐怖が待っているからだ―。
そういう意味じゃこれは“シュヴァンクマイエル版 『カッコーの巣の上で』”、
と、そう言えるのかもしれない……。

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先に告白すると、ボクは本作のブッ飛びぶりになかなかついてゆくことができなかった。
ほとんど置いてけぼりにされ、鑑賞後は独り取り残されたような気分にも……。

精神病院で母親を亡くして夜ごと巨漢の職員2人組に拘束される悪夢にうなされる、
主人公ジャン・ベルロ(パヴェル・リシュカ)が見るのは、
神を侮辱し、神の目前で快楽に溺れる礼拝堂での罰当たりな儀式や、
拘束服も電気ショックもなしに早、無法地帯と化し、
まさに人間の終着駅のようになっている病院内の地獄絵図。
拠りどころかもしれないと思って接する人間たちもみんなどこかおかしくて、
自分にやさしく微笑んでくれる聖女のようだと思っていた女も、
ひと皮剥けば、ただの大ウソつきの薄汚いヤリマン女だった。

ベチョベチョと深層フェティシズムを淫靡に煽る不快な音や、
“肉”が縦横無尽に蠢く目も眩むようなイメージの奔流にクラクラとするうちに、
ボクたちが無意識に敷いているスクリーンと客席の間の境界線はしだいに曖昧になってゆく。
しかし、それこそが正気と狂気、異常と正常の境目を破壊する作者の意地悪な映像マジック。
要は作者は、誰か(権力)にとり都合のいい価値観を植え付けられ、それに気づこうともしない、
ガチガチに凝り固まったこの“殻(肉体)”を捨てろとボクたちに言っているのだ!
それはつまり、このカタチを変えた全体主義の時代に人が本当に“自由”でいたいなら、
もはや気が狂うしかないという冷徹なテーゼと言えるのだろうか……?
冒頭でシュヴァンクマイエル本人がスクリーンに登場し、
「ホラーならではの落胆をお見せしましょう」と語っているのはそのことなのかもしれない……。

確かに、
『アリス』 や 『悦楽共犯者』 のテイストを期待した人には違和感を覚える作品かもしれないし、
イマジネーションの洪水に溺れるうちに、途中で気を失ってしまう人だっているかもしれない。
しかし、前作 『オテサーネク』 じゃ多少感じられた“迷い”のようなものをなんなく突き破る、
まるでどこか吹っ切れたかのように挑戦的な作風はさすが転んでもただでは起きない、
時代を駆け抜けてきたシュルレアリストの真骨頂。
そして、それは多分、「面白さ」の意味さえ均一化されようとしている、
現代の「映画」に対する飽くことなき挑戦状でもあるのだ―。



併せて公開中のフランスのTV用ドキュメンタリー、『シュヴァンクマイエルのキメラ的世界』 は、
『オテサーネク』 の撮影現場や、チェコで開催された展覧会の準備の模様を交えつつ、
稀代のアニメ作家の素顔やインタビュー等で構成されたファン垂涎のフィルム。
「CGは完璧すぎて好きじゃない。手作業はどんなに細心注意を払っても必ずミスが混じる。
 だけど、私はそれが好きなんだ―」と穏やかな表情を浮かべて語る姿が愛らしい、まさしく、
♪CGなんかいらねぇゼ!俺たちゃ手作り特撮さ!着ぐるみ!ミニチュア!ピアノ線!(by特撮)
とラウドしたくなるような“シュヴァンクマイエルのテーマ”とでも言うべき超貴重なドキュメント!

そんなシュヴァンクマイエルの素顔はボクたちに、
想像することこそが人間にとって最大の“自由”であることをそっと静かに、教えてくれる……。

シアター・イメージフォーラム(渋谷) にて公開中 ]

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