報われない星ほどの悲しみのために… 『カルラのリスト』

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毎日はひたすらハラが立つ事ばかり……。
仕事や対人関係のストレスは昼夜心を蝕み続け、
いつも気持はささくれ立ち人に優しくする余裕など皆無。
自分だけが損をしているように感じ、自分だけが辛いように感じ、
そうして心の中に棲む“犬”は、夜ごと昼ごと、怒りや孤独を貪り続ける。

しかし、そんな自分の心を一、二歩退いて透かして見れば、
ほとんどのストレスの原因なんてチョットした切替で解消できる、
ハタからしたら取るに足らない些細な事柄であることがたいていで、
ましてや日々のイライラや失恋の痛手など、その日のメシや酒をマズくしても、
決して自分の一生まで狂わすほどのレベルじゃないと気づいてようやくため息がひとつ。

まぁそんな俯瞰が難しいからこそ人は皆悩むんだけど、しかし比較の問題じゃないとは言え、
この世の中には確実に、人間の数ほど、いや、人間の数より、いや、星の数と同じぐらい、
人の一生を狂わせてしまうようなレベルの途轍もない怒りと悲しみが数限りなく存在し、
そんな怒りや悲しみと較べれば自分の苦悩などクソでもないと今度は後ろめたささえ感じる。

ある日、どこゾの鬼畜国家にさらわれた娘を想い続ける親の悲しみに較べれば、
ある日、どこゾの鬼畜に愛する女房と幼い我が子を殺された夫の嘆きに較べれば、
ある日、戦争の大義の元に突然愛する息子の命を奪われた母親の怒りに較べれば、
そしてみんながとっくの昔に忘れた戦争の後遺症に今も苦しむ人々の孤独に較べれば、
やれ給料が増えないだの女にフラれただの誰々がムカつくだのとそんなモンはクズ同然で、
しかし、世の中が、社会が本当に忘れてはならない怒りや悲しみも時が過ぎてしまえば、
そんな日々覚える取るに足らない些末なストレスの前にいつしか雲散霧消してしまい、
そして人間は、いつまで経っても同じ過ちを繰り返す。
ボクもいずれ取り返しのつかない過ちを犯す日が来るかもしれない―。

どうせ誰かのためになるような日々を送っているワケじゃない。
楽しいことだけ考えて、楽しいことだけ追いかけて、難しい映画は観ず、
ゾンビが飛び出す映画とか観て笑っていたらそれで一生はオーケーだと思うし、
それは決して悪いことでもなければ、誰かから批難されるようなことでもない。しかし、
だがしかし、心の片隅にポッと「それだけでいいのか」と振り返る小さな自分が現れて、
それを何かの贖罪と言えばそれこそ神仏の逆鱗に触れ天罰が下るのかもしれないけど、
観るのも書くのも辛くても、こうした映画を観ることで、自分の心に一度折り合いを付けてみる。

かつてトルコからブルガリアへと入り、マケドニアとアルバニアを経て、
モンテネグロを突っ切ってボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボへと至り、
そこから左手に夕陽を見ながらバスでクロアチアのザグレブまで旅をした。
それは当然、内戦のことは知っていたしサラエボの街に残る内戦の傷痕にもたじろいだけど、
しかし、そんな感傷はけっきょく一介の旅行者のチョットした自慢話にしかすぎず、なにより、
旅の酩酊感に酔うのみでそこに漂う無数の怒りや悲しみにまで想いを馳せはしなかった。
この映画を観てはじめて、あの時に見た街の光景がようやく心に重くのしかかってきた。



『カルラのリスト』 は、
いまだ記憶に新しい旧ユーゴスラビア紛争(1991-2000)のボスニア内戦(’92-’95)で起きた、
セルビア人勢力によるイスラム教徒虐殺、“スレブレニツァの虐殺”における虐殺責任者を、
どうにか旧ユーゴ国際刑事法廷にかけるため世界中を飛び廻る1人の女性国連検察官、
カルラ・デル・ポンテの足跡を追いかけた迫真のドキュメンタリー。重いけど、観る意義はある。

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映画の舞台である「ICTY」、「旧ユーゴ国際刑事法廷」とは、
1991年以降、旧ユーゴ領内で行われた戦争犯罪の責任者を裁くため、
1993年5月に国連安全保障理事会によってオランダのハーグに設立された機関。
舞台の中心人物のカルラ・デル・ポンテは、そこで働くスイス人の国連検察官で、
映画は、どこかに潜伏している虐殺責任者を追い求めて世界を飛び廻る彼女の姿に、
虐殺で愛する者を奪われた女性たちのインタビュー映像を絡ますカタチで構成されている。

本作の肝は、そんなカルラという女性をパーソナルには捉えていない点。
それは、世界一厳重なボディガードに守られている女性の1人である彼女を、
多くのドキュメンタリー映画みたいに長年にわたって密着取材することはできず、
結果、30日間のみ取材が許されたという酷な条件が生んだ必然的なものじゃあるんだけど、
しかしそれは逆に一個人のために世界が動くというかつてはなかった構図を俯瞰で示して、
本作にかすかな希望を見出すとしたらポイントはそこなんじゃないかという気がボクはする。

だけど、映画を観て、文字通り東奔西走するカルラの姿を見ればわかるように、
当然そこにはいくつもの障害があり、各国の思惑や国家間のカケヒキに阻まれて、
隠れている虐殺責任者を炙り出して白日の下に晒すことはなかなか容易とはいかず、
彼女が就任当初に起訴したミロシェビッチは裁きを受けないまま2006年に獄中で死亡し、
劇中で執拗に名前が出てくるカラジッチとムラディッチは今もなおどこかで息を潜めている。

けっきょく、一個人の悲しみが国家の思惑の元じゃいかにないがしろにされるものなのか、
そんな現実が胃に鉛を呑んだような後味の悪さを残し、そしてその印象は同じように、
国家間のカケヒキ等が壁になりいつまで経っても肉親を取り戻すことができない、
拉致家族会の人々の疲れ果てた姿と重なり思わず胸が詰まってしまう―。
巷で起きる犯罪にしても被害者や遺族の尊厳がないがしろにされることは常で、
それがその上、戦争という厄介な冠が付けばそれに拍車がかかることはなおのこと。

多くのこうしたドキュメンタリー同様、たった95分のこの映画を観た程度で、
ユーゴ紛争の全体像やその問題点を把握できるなんてそんなワケはないし、
けっきょく映画が終わっても報われない悲しみを前に無力感に襲われるだけで、
徒労感とともに劇場を後にするくらいしか、ボクら一観客には術がない。
だけど、逆に言えばその無力感を体感することこそこうした映画を観る意義で、
それによりこの地上に無数に偏在する報われない悲しみに想いを馳せることでしか、
ボクらがワザワザ、金と時間を割いてこうした映画を観る意義は昇華しないとも思うのだ……。

映画の中のカルラは感情ひとつ荒げることなければ、鉄のように冷たい印象の女性で、
おおよそ映画の主人公として共感や感情移入ができるようなタイプの人物ではなく、
だけどその業務内容は、鉄のように冷たく固い意志によりことに当たらなければ、
時に無力感に襲われ心が折れてしまいかねない類のハズで、そんなことに想いを馳せる時、
じゃ自分に何ができるのか?と、ボクらははじめて自分の手を見、そして、足下を見る……。



決して楽しい映画じゃない。まして仕事帰りの息抜きに観るような映画でもない。
だけど映画を通して世界の悲劇を知ることは、図らずしも自分の足下を見つめさせ、
日々の細々としたストレスさえ、本当は幸せの証なのかもしれないと思わせてくれる。
硬派な題材を前にそんな風にアプローチを試みるのは果たしてお門違いだろうか……?

映画の中の旧ユーゴ国際刑事法廷は、来る2010年には閉所される予定なんだという―。



楽しいばかりが映画じゃない。だけど、悔しいばかりが人生じゃない。



東京都写真美術館ホール(恵比寿) にて11月30日(金)まで公開
  アップリンクⅩ(渋谷) にて12月1日(土)より公開 ]

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