これぞオリヴェイラ流「色即是空 空即是色」!? 『夜顔』

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所詮、ボクなんゾは至ってノーマルな人間なので、
これといって特別な性的嗜好は持ち合わせておらず、
スケベする時に若干“口数が増える”レベルなんだけど、
強いて言えば夏、ノースリーヴ系を着た女性の腕を下ろしている状態における、
その腕と肩の接合部分に発生する“シワ”が好きってこの説明でわかるだろうか?
とにかくボクはそれだけ見ていればゴハンが軽く3杯は食べられるくらいそこが好き。
まァ至ってノーマルとは言いながら、実は立派な変態なのかもしれない・・・。

それはともかく、今や人間、身の上も身の下も乱れに乱れまくった病んだ時代。オマケに、
情報過多であらゆる欲望が瞬時に充たされる“ような”錯覚に支配された世の中なので、
とかく性的嗜好もフツーでは満足できない人というのが極めて多い、ような気がする―。
要は“フェティシズム”の話がしたいんだけど、そんなフェティシズムを描いた古典として、
今なお色褪せることなく面白いのがつまりは今回の映画のオリジナル、フェティシズム王、
ルイス・ブニュエルが、若かりしカトリーヌ・ドヌーヴ主演で撮った1967年の名作 『昼顔』 だ。

今回、本作を選ぶにあたり復習がてら久々にその 『昼顔』 をDVDで観直してみたんだけど、
それはもう、ずいぶん昔の映画なのでほど好く品もあり特別に過激なワケじゃないとは言え、
そこはやはり、あの頃のドヌーヴという、今見てもパーフェクトな西洋美女がカメラの対象ゆえ、
そんな彼女が、シャンシャンシャンという鈴の音の合図とともにムチでピシピシ打たれたり、
縛られた上に顔へ泥を投げ付けられたり、あるいはムクツケキ男どもに口汚く罵られたりと、
そのテの描写がテンコ盛りで、ボクにはこれといってあからさまな加虐的嗜好はないけども、
それでも「わかってますねぇ!」とドヌーヴが人妻風俗嬢という設定だけでもうゴハンは3杯!

だけど、今なお楽しい艶笑譚とは言え 『昼顔』 は単にフェティッシュなだけの映画じゃなく、
大団円には悲劇もあり、それがなぜ起きるかと言えばそれは登場人物の“執着”ゆえだ。
(飛躍するが、話を展開させる便宜上、フェティシズムという言葉を“執着”と翻意させて)
フェティシズムと言ってるウチはいいがしかしそれが執着になるとことは途端に厄介なものに。
とにかく人が苦しむのは“執着する”からであり、それが度を越せばヘタすりゃ犯罪になる。
けっきょく我々人間の世界に溢れる悲劇の根幹はすべて“執着”から始まるものであり、
とかく今は情報が溢れすぎ手に入れたい物がすぐ手の届く位置にあるような錯覚がして、
(それは物品に限らず、金も、趣味嗜好に適ったセックスも、そして人の心や愛情さえも…)
しかし欲しい物なんてほとんど手に入らないのが人生だから、そこで軋轢とストレスが生じ、
(ボクを含め)現代に生きる人間は欲しい物が手に入らないとすぐ癇癪を起こし、つまりキレる。
執着が多ければ多いほど、それと相比例するように悲劇の数だってどんどん増えてゆき、
たとえば佐世保で起きたような事件はまさに現代の典型であって、言わばああした悲劇は、
執着が溢れて歪みに歪んだ時代の必然と言えば必然と言える話なのだ。悔しいけれど……。



話が飛びすぎた。そしてまた暗くなりすぎた。けっきょくボクは何が言いたいかと言うと、
この12月の何日だったかで白寿、つまり99歳(!)を迎えた現役世界最高齢の映画監督、
『メフィストの誘い』 や、驚愕の傑作 『永遠〈とわ〉の語らい』 で知られるポルトガルの名匠、
マノエル・ド・オリヴェイラ監督が 『昼顔』 にオマージュを捧ぐカタチで撮った新作 『夜顔』 は、
強引に言えば、そんな“執着をめぐる物語”の続篇を撮ることによって逆説的に、
「執着するな」という意味の話を語りたかったんじゃないかと……。なぜ今 『昼顔』?
なぜ今ブニュエルに!? 本作を前に浮かぶ疑問のすべてはそんなテーマを語るための、
仕掛けだったのでは?と想像してみたってワケ(しかし“昼顔”の続篇だから“夜顔”ってキミ)。

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 とある演奏会の会場で、ユッソン(ミシェル・ピコリ)は昔の友人の妻で、
 今は未亡人になったセヴリーヌ(ビュル・オジエ)の姿を偶然、見かける。
 彼女の後を追うユッソンだが過去から逃れたいセヴリーヌは彼を避ける。
 しかし、やっとのことで彼女をつかまえたユッソンは胸に秘めていた、
 過去にまつわる衝撃的な出来事の真実を打ち明けたいという口実で、
 無理矢理ディナーの約束を取りつける。そしてその時間が訪れて……。

とりあえずこの 『夜顔』 をより深く味わいたいならやっぱり、『昼顔』 は観といた方が無難。
じゃないと2人の関係もわからないし、なんの話か!?と戸惑い退屈なだけかもしれないから。
もちろん、基本カメラ据え置きの極力体力を使わないある種摩訶不思議な演出が醸し出す、
老匠ならではの物語のコクと味わいだけでもきっと70分、退屈したりはしないんだけど、
しかし38年前の 『昼顔』 の2人が「それはないだろう」というカタチで半ば強引に再会し、
そしてなんだかミシェル・ピコリがやたら鬱陶しい厄介なストーカーじじぃを演ずる果てに、
けっきょく 『昼顔』 の2つの秘密、“東洋人の小箱”の中身と(なんでユッソンが知ってる!?)、
セヴリーヌの夫にユッソンがあの時に何を話したのかがまったく明かされないというオチは、
ある意味、映画としてはこれ以上ない衝撃じゃないか? だって勝手に続篇作っといて……。

しかし、その謎かけこそが本作最大の魅力であり、転じて人生の真意とは言えないだろうか。
要するに、その謎かけの“心”とは、「知りたがるな」ということじゃないかとボクは思ったのだ。
言い換えれば「執着するな」。執着するから迷いが生じるしそれは時に悪意や暴力に変わる。
わからないことは、わからないままに―。けっきょくそこには、“何もないのだから”と……。
つまり“空〈くう〉”。そう、これはきっとオリヴェイラ流の「色即是空 空即是色」の教えなのだ。
(勝手に続篇作っといて…という気持は拭えないけど、しかしそれさえも拭わないままにという)

現代の人間は情報に流され欲望に支配され、なんでも知りたがるし、なんでも欲しがる。
現代の映画の観客は、笑いも涙も感動も上げ膳据え膳で用意しないと絶対に満足しない。
わからないからこそ人は知や想像を生み、何もないからこそ“ただ”人生は豊かなのに……。
映画自体に秘密が潜めばこそ 『昼顔』 は今なお名作だのにそれを暴くワケなかろう。
静かに耳を澄ませば、天国できっと今も女の足に頬ずりしているブニュエルに向かって、
「映画も人間もツマラねぇ時代になったなぁ…」とボヤくオリヴェイラ爺の声が聞こえそうだ。
知らないままの、わからないままこその愉しみ。それが熟成された人生というものなのだ―。



執着しても仕方がない。そこには何かがあるようで、実はなんにも、“ない”のだから……。
「なぜあの娘はボクを好きなってくれないのか」 「なぜ私はあの人に嫌われてしまったのか」
執着しても仕方がない。執着するから心が惑う。そこには何もない。色即是空空即是色……。

と、ボクはこんな風に勝手に解釈してしまったけど、しかし間違いなく、
世界最高齢の名匠が仕掛けるまるで禅問答のような70分の映画的酩酊、
『夜顔』。なんとすでに次回作まで撮り終えているというから驚きだ。凄ぇ・・・。

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