純粋すぎるがゆえの愛の暴走… 『接吻』&『黒い土の少女』

久しぶりに、“愛とは何か?”について考えさせられた―。
なんて気どって書き出すと後がつづかなくなりそうだけど、
しかし本当に、自分のコトも踏まえ、久々考えさせられた。
とりあえず、広い意味で“愛”とは人を思いやる気持だと考えているんだけど、しかし、
だからと言ってその思いやりが必ずしも相手のためになるかと言えばそうとは限らず、
思いやりのつもりが単なる“押し付け”でしかなかったなんて経験は誰にもあるだろう。
思えば思うほど相手の心が離れたり、思われれば思われるほど相手を鬱陶しく感じたり。
自分で言うのもアレだが、個人的には人を好きになると愛情過多になるとこがボクはあり、
反面、その裏側でその気持を「ウザい」と思われたらどーしようという恐怖がすぐに芽生え、
相手の反応に対し過敏になりすぎ、勝手に神経をすり減らしてしまうということが多い……。

相手の中に自分が普段心に秘めているモノと同じ何か(孤独とか、怒りとか)を見出した時、
「この人のすべてを理解できる」、もしくは「この人なら自分のすべてを理解してくれる―」と、
恋する気持が加速するのを男女誰しも人を好きになったことがあれば理解できると思うけど、
しかしそこで相手に対して芽生える思いやりというのは、実は自分に向けられたものであり、
だからそれが自分の気持好いようにはね返ってこないと相手を自分と同じと思っているから、
「なぜ?」と歪みが生じ、相手が自分と同じと思えば思うほどその歪みは大きくなってゆく―。
この世に同じ人間などいないのだからそんなこと俯瞰で考えればすぐわかるハズなんだけど、
しかし恋してる時の“いっぱいイッパイ感”はその本来の余裕を見事に打ち消してくれるから、
相手の気持を量りかねる辛さは夜ごと昼ごと心の何かを蝕んでゆく。本当に難しいね……。

相手の中に“自分を見出す”というのは孤独や不安が癒されるようで本当に気持が好いし、
誰かを思いやる気持、つまり愛が心を強くするというのは要はそういうことだと思うんだけど、
しかしその愛の相互バランスがうまくいくかどうかは、実のところ神様にもわからないワケで、
そこらヘンの誤差というのか、相手との違いを自分の中でうまく消化できるようになることが、
つまりは“大人になる”ってことなんだと思う。だけど、最近はそれができない人が多いから、
時に世の中では、信じられないような悲劇が起こる。最近よく耳にする“デートDV”にしても、
前からよく聞く夫婦間におけるDVにしてもストーカーにしても離婚が多いという事実にしても、
けっきょくは“大人になれない大人”が増えている現状に端を発しているんじゃないだろうか?
この映画に描かれるのも、大人になり切れないゆえに、未熟なまま暴走する類の愛だと思う。

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“自分らしさ”に固執する不器用な女と彼女をめぐる2人の男との恋愛劇 『UNLOVED』 や、
阪神淡路大震災の後に生まれた実話を題材に描かれた感動作 『ありがとう』 で知られる、
俊英・万田邦敏監督の長篇第3作、小池栄子の熱演も各方面で大評判の映画 『接吻』 は、
孤独な1人のOLが、ある日、TVから流れてきた一家惨殺事件の犯人逮捕のニュースを見、
その時に映し出された犯人の笑顔に直感的に自分と同じ孤独や怒りや絶望感を見出して、
急速に愛を膨らませしかしそれがやがて犯人の弁護士をも巻き込み破滅へと向かうという、
そんな、狂気と紙一重の愛を描いた物語だ。ストーリーだけ聞けばセンセーショナルだけど、
しかし本作は“恋愛映画”、突き詰めれば渡辺淳一になど書けぬ本物の“純愛映画”であり、
社会性も匂うモチーフから独創的な物語を創り上げたという意味で本当に面白い映画だった。

わかりやすく言えばこれはいわゆる“追っかけ”の恋愛で、その対象がこのヒロインの場合、
ある日、TVに映った殺人犯人だったということなんだけど、そのスキャンダラス性はともかく、
センセーショナルな話題になった殺人犯が偶像視されるという例自体は特別に珍しくはなく、
恋愛の対象が仮に冷酷な殺人鬼だろうとレイプ魔だろうとそれは別に問題ないとボクは思う。
しかし人間てのは子供の頃から様々な環境の中で対人関係における“距離感”を培うもので、
それがあるから人は傷ついてもまた傷つけてもそれを乗り越えることができると思うんだけど、
しかし京子みたくその経験のあまりない人間は(劇中で京子の背景はあまり描かれないが)、
もしくは日頃より強い劣等感を感じている人間は逆に自我が発達しすぎている面があるから、
ある時、愛の対象を見つけても、その“距離感”がまるで掴めず気持のままに暴走してしまう。
そして相手を究極に思っているという気持、しかし実のところ究極の“自己愛”に自ら溺れて、
相手との隙間を理解することないまま自分の気持を押し通すことのみ“正”と思い続ける―。

心が屈折しているあまり世間を敵に廻した殺人犯・坂口に自分の孤独を重ねて感情移入し、
純粋すぎるがゆえに自らの愛に破滅してゆくヒロイン・京子を小池栄子が体当たりの大熱演。
豊川悦史はやはりカッコ良すぎな気がするんだけどセリフも控え目に独特の存在感を発揮し、
なにより熱情を秘めながらも良識的であろうとする弁護士・長谷川役の仲村トオルの好演が、
この、ともすれば独りよがりに浮いてしまうありえない純愛を地に足着かせる要になっている。
本作の惹きの“映画史上誰も観たことのない衝撃のラスト”の意味。確かに、本作のラストは、
この異形の愛の物語が行き着く果てのラストとして衝撃的じゃあるんだけど、しかしこの時代、
昨今、巷に見る歪んだ愛憎が呼び起こす様々な悲劇と並んで印象は非常に現代的だと思う。
もはや見た目がキレイなだけの恋愛映画に愛の本質を見るような呑気な時代ではないのだ。
抜群に吸引力のある脚本と耐久性の高い演出で愛の根幹を捉えたパワフルな傑作。必見!



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一方、昨年に引き続き「韓国アートフィルム・ショーケース」と称して紹介される4作品の1本、
同じく渋谷で公開中の韓国映画、本邦初紹介になるチョン・スイル監督の 『黒い土の少女』
この映画は、高度経済成長から見捨てられ、そして鉱山も閉鎖になって廃れゆく一方の村で、
母親の代わりに父や兄の面倒を一生懸命に見る1人の少女の日常という戦いを描いた物語。
作家映画らしく全篇淡々としていて、一見、『接吻』 とはなんの脈絡もないように思えるけど、
しかし、それが何かも認識できないままで1人けな気に孤独と戦い、純粋に生きるがゆえに、
余儀なくされる現実によっていつしか行く先を見失い絶望を選んでしまう少女の無垢な姿は、
あまりに哀しく、彼女が1人荒野に立たされるかのようなラストは 『接吻』 に劣らず衝撃的だ。
辛い話だが不思議と陰惨さはなく、それは少女が1人の人間として描かれている所以だろう。
“純粋すぎる愛”の悲劇を描いた映画として共通していると思ったのでコチラも併せて御紹介。



しかし、女の愛には底がない……。
愛とは果たして何か? カップルで、もちろん独りででも観てほしい、そんな日韓の秀作2本だ。

『接吻』
ユーロスペース(渋谷) にて公開中 ]
『黒い土の少女』
シアター・イメージフォーラム(渋谷) にて3月21日(金)まで公開 ]