“映画の授業”にピッタリの両極端な傑作2本! 『コロッサル・ユース』&『アフタースクール』

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今じゃいわゆる“絵心”なんてまったくと言っていいほどないんだけれど、
子供の頃は絵を描くのが大好きで、図画の時間(図工?)も楽しみだった。
中学や高校の時も確か国語に並んで美術の成績はソコソコ良かったハズ。
で、小学生の頃は描くのも好きなら自分でも絵はイケてる方だと思い込んでいたし、
周囲からも常に「絵、上手だね」と言われて完全にそのつもりになっていたんだけど、
ある図画の授業の時に、確か5年か6年生で担任の中村健史先生にだったと思うが、
「確かに上手だけど、しかしオマエの絵は“ツマラない”」などと言われたことがあった。

その時、確かボクは2人の人物が向かい合って何かをしている場面を絵に描いていて、
描いてるソバから「上手だね」と女子に言われ「フフン」などと鼻を鳴らしていたんだけど、
その中村先生曰く、「2人をただ“真横”から描いているだけで、こんな絵はツマラない」と。
同じ人が向かい合っているでも、それを斜めから捉えて描くとか云々…とそんなことを言うのだ。
要は先生は、ボクの絵は確かによく描けているかもしれないが構図が平坦で“奥行き”がないと、
その時先生が“奥行き”なんて使ったワケじゃないけど要はそういうことを言いたかったんだと思う。
その指摘が果たしてたかが小学生の絵に有効だったかはともかくなぜか今でも時折り想い出す話。

自分は絵が巧いと思い込んでいたのに、描いた絵をよりによってみんなの前で酷評(?)され、
すっかり鼻っ柱をヘシ折られて大いにプライドが傷ついたような気がその時はしたんだけれど、
内心「そうか…」と“奥行き”なんて言葉は知らなかったが先生の仰ることはボンヤリ理解した。
確かに“絵”というのは一見縦×横の二次元だけどただ描けば“奥行き”が出るってモンじゃない。
平面に奥行きを出して三次元を表現するには構図を含め様々な工夫や技術が必要だと思うけど、
ひいては映画も“絵”である以上映像に奥行きを感じる感じないじゃ印象も俄然違ってくるワケで、
絵と同じく、映画にしたってただカメラを廻せば映像に奥行きが出るってワケではない―という話。

映画を観るのは大好きでも「創りたい」と思ったことはないので技術的な話は何もわからないし、
ソモソモ「映画の創り方」ってどんな風に学んでゆくものなんだろう…といつも不思議なんだけど、
そういや昔「小説の書き方」を学ぶなら志賀直哉の小説を書き写すのがいいと聞いたことがあり、
なにゆえ志賀直哉なのかは、志賀直哉を読んだことがないのでなんとも言及できないんだけど、
しかしなるほど確かに絵でも小説でも映画でも、とにかく創作について学びたいと思うのならば、
イッソ自分が手本にしたい作品を一から十までなぞって同じ物を創ってみるのがいいかもな、と。
(とは言え映画は1人じゃ創れないから絵や小説のようにはいかないというツッコミはさておいて)
自分で映画を創りたいと思ったこともなければこの先一生創ることはないと思うんだけど、しかし、
奥行きのある映像の撮り方について学びたいと思うなら、いきなりレベルが高すぎる気はするが、
コスタの映画なんて絶対有効だな、とボクは 『コロッサル・ユース』 を観ながら考えていたって話。

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というワケで今、世界最前衛と思われるポルトガルの映画作家ペドロ・コスタの最新作は、全篇、
155分、とてもデジタル撮影とは思えない息を呑むほどに静謐な奥行きを感じるすべての映像に、
忘れられた世界の一隅で絶望とともに生きる人々の孤独な魂と消え去る土地の慟哭を滲ませた、
『骨』 や前作 『ヴァンダの部屋』 につづいて、リスボンのスラム街を舞台に創られた渾身の力作。
ドキュメンタリーとも劇映画とも括れない超前衛的な作風は容易に一見が楽しめる類ではないが、
しかし何が凄いかも凡庸な自分では明確にできないままにやっぱり「凄い」と思うしかない作品で、
それはもう、諸作を一応観ていることからくる“ペドロ・コスタ”というある種の“安心感”に相違なく、
ドラマが云々じゃなくて映画という約束された時間を心地好く味わえる真に稀有な一篇だった―。

『ヴァンダ~』 の時はまんまと寝てしまったんだけど、多少はボクの体がコスタを“覚えた”のか、
今回は寝不足の重たい体に映画のしっとりとした気怠さが妙にしっくりきて、雨で気温が下がり、
場内の空調もチョット寒かったためか、上映中は2回もオシッコに行ってしまったんだけど(長いし)、
なにやら本作にはこれまでコスタ映画には感じなかった(多分ボクが凡庸で)ユーモアさえ覚えて、
登場人物たちを愛着を持って眺めることができた(と思う)。単に技術云々以上にコスタという人は、
映画を撮るためならその舞台に自ら住み込むというぐらいに映画のための努力を惜しまない人で、
そんな強靭な作家精神がまた映像に技術だけでは語れない奥行きを生んでいると思うんだけど、
とにかく映画作家を目指すなら、というよりもほとんどの作家はもっとコスタを見習うべきだと思う。
容易に一見には云々と先に書いたけど究極の作家映画として真に挑戦する価値のある傑作だ。



一方、ガラッと変わり3年前、『運命じゃない人』 が大変評判になった内田けんじ監督の最新作、
大泉洋・佐々木蔵之介・堺雅人というまさに旬な顔ぶれが揃って話題の 『アフタースクール』 は、
各方面で「面白い!」とこれまたあまりに評判なので急遽、観に行くことにした1本だったんだけど、
別に斜めに観て粗探ししてやろうなんて気はなかったもののなるほど確かに面白い映画だった!
単に評判に吸い寄せられて観に行ったとしてもこれだけ面白ければゼッタイに損はないと思うし、
なによりヘンに知性をひけらかさず、かと言って観客をバカにした安直な作りに陥ることもなしに、
あらゆる角度から徹底的に練られ、検証され、そして万人向けに創られているのが素晴らしい!

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全然マニアックでもなければ、見た目はあくまで軽く楽しめる娯楽映画といった印象なんだけど、
しかしその実、こういう映画こそが相当な努力と技術の上に創られていることはマズ間違いなく、
『運命じゃない人』 同様、確かに人物それぞれのドラマはややステレオタイプな気はしたものの、
観客を集中させ、一つ一つの展開を確実に楽しませるエンターテインメント映画の作りとしては、
これまたこんなによくできた手本のような作品は日本映画には珍しいんじゃないかと思うワケで、
映画のみならず小説でもゲームでもとにかくエンターテインメント作家を目指している人がいれば、
この内田けんじという作家の作品は大いに参考になるんじゃないかと思う。観直せば観直すほど、
感心できる作りにちゃんとなっているんじゃないかな。しかし佐々木蔵之介って、本当に巧いよね。



“映画の授業”といって、そりゃ確かに古典を手本や教科書にするのももちろん大切なんだけど、
しかしこうして新世代の作家たちの中にも真に手本にすべき人は洋の東西を問わずいるワケで、
方や極東の島国、方やユーラシア大陸最西端の国、そしてジャンルも方向性も両極端とは言え、
しかしその実優れた映画が放つオーラというのはやっぱ共通しているんじゃないかとボクは思う。
そんなワケでいずれにせよ、方や究極の作家映画、方や究極のエンターテインメント映画として、
キミが本当に映画好きを自称するなら、どちらも押さえておくのが映画好きとしての筋ってモンよ。

『コロッサル・ユース』
シアター・イメージフォーラム(渋谷) にて公開中 ]
『アフタースクール』
新宿ジョイシネマ ほかにて公開中 ]