子供が大人の犠牲になる時代に… 『子供の情景』&「アモス・ギタイ ドキュメンタリー・セレクション」

画像

今月、日本で「パキスタン支援国会合」という会議が開かれたのを知っているだろうか? とか言って偉そうに、
ボクもその直前にタマタマ見たTVでようやく知ったにすぎないんだけど、とにかくアメリカが対テロの主戦場を、
再びアフガニスタンへ据えようとしている今、なぜにパキスタン?という気も一瞬するんだが、でもパキは現在、
各地で自爆テロや襲撃事件が頻発するなど、ヘタしたら国中テロだらけに思える混沌とした状態になっており、
それはずっと政情不安だったりや9.11以降の対テロ最前線だったりなど所詮素人に背景説明は難しいものの、
思うに最大は、アフガンとの国境地帯にいわゆる“トライバルエリア”といってパキ政府の支配力が通用しない、
“パシュトゥーン人”という部族を中心とする自治州みたいな地域がありその辺がテロの温床になっているから。
そことパキ政府がやってはやり返すを始めてからパキはヒドい状態になったという気がする(ワジリスタン紛争)。

で、テロの温床になるような地域というのはたいがいが貧困地帯であり、そこに対して攻撃などが行われると、
決まったようになんの罪もない民間人が犠牲になるから、テロ組織より攻撃した政府憎しという感情が生まれ、
さらにはそれを利用してテロ組織が報復の必要性を煽ることで憎しみの連鎖はどんどんどんどん広がってゆき、
けっきょくは何も知らない子供らがテロ攻撃の新たなる“道具”として育てられてゆくという……。本当に惨い話。
要するにテロなんて、いくら武力を投じて上から押さえ付けようとしても火に油を注ぐような結果にしかならない。
だからテロの温床となる貧困をマズは解消して連鎖を止めようという話となって、それでパキを財政援助すべく、
30ヵ国以上の国が集まって先の支援国会合が開かれたというしだい(そんなに間違ってない説明だと思うけど)。
道のりは長いと思うし問題は山積だと思うけど方向性は正しいハズだから単純にうまくいけばな…と心より思う。



よくタリバンが子供たちに銃の撃ち方を仕込んでいる映像がニュースに出てくるけど、あんな最悪なものはない。
そんな中、イラン映画の巨匠モフセン・マフマルバフ監督( 『カンダハール』 )の次女ハナ・マフバルバフが撮った、
『子供の情景』 は、アフガニスタンを舞台に普遍的な戦争の悲劇、とりわけ大人たちの身勝手なイデオロギーに、
国も時代も関係なくいつも振り廻される子供たちの悲劇に目を向け、熱い怒りを漲らせた彼女の長篇デビュー作。
2001年の3月に、タリバンがバーミヤンの石仏遺跡を破壊した時の映像で始まる本作の主人公は6歳の女の子。
「学校へ行きたい」と願うその女の子バクタイは、なんとかノートを買うお金を作らんと卵を売りに街まで出かけて、
大人たちとカケヒキを繰り返した末にようやくわずかな金を得、新しいノートを手に入れる。しかし学校へ行く途中、
バクタイは「俺たちはタリバンだ!」と叫びながら“戦争ごっこ”をしていた少年たちにノートを奪われてしまい……。

従来のイラン映画と同じく子供の小さな冒険を通してそのならではの感性やバイタリティーを瑞々しく描きつつも、
一方で大人たちが子供に与える悪影響をストーリーに反映させる若き映画作家の言わんとするあたりは明快だ。
“タリバンごっこ”をしている少年らの手で、バクタイの真っサラなノートがビリビリに破かれてゆく様子はそのまま、
無意味な争いで奪われていった、尊い文化や子供らの教育の機会の象徴であり、その悲愴感に胸は苦しくなる。
もちろん映画はタリバンごっこに興じバクタイをイジメる少年たちのことも大人の犠牲として描いているんだけれど、
しかしそこには、戦争を始めるのはいつの世も男という部分に対する女性らしい皮肉も込められているように思え、
正直、バクタイが女学校にたどり着いてからの件はもうチョット削ったっていいんではないかという気がしたんだが、
そこはそこで、タリバン政権時代よりは解放された、現地の女性たちの“今”を象徴させる意図もあったんだと思う。

そしてこの映画の英語題「Buddha Collapsed Out of Shame」は、訳すなら「仏像は恥辱のあまり崩れ落ちた」で、
元々はモフセン・マフバルバフ監督が著した本のタイトルなんだけど(読んだワケじゃないが)、その題名の奥には、
石仏が壊された当時、遺産が失われた事実に怒るだけでその影でどれほどの人間が犠牲となったかについては、
まるで言及しようとしなかった国際社会に対する批判も込められておりハナ監督もそこは継承したんではないかと。
モフセン監督の娘といえば、彼女の先に長女のサミラ・マフマルバフも監督デビューしていて、ボクは 『りんご』 と、
『ブラックボード 背負う人』 の2本だけを観たことがあるんだけど、姉の作風が、少々背伸びしすぎだったのに対し、
妹の作風は非常にストレートというかいかにも若々しいといった感じで、そんな彼女のある意味での現代っぽさが、
題材とはまた別のところで今日びのイラン女性を象徴しているような気もチョットして、とにかく要注目の1本だった。


一方、イランといえば、ついこないだ国連で開かれた「世界人種差別撤廃会議」で、アハマディネジャド大統領が、
「イスラエルは人種差別国家だ」とかメチャクチャ批難し会議が紛糾したというニュースがあったばかりなんだけど、
今度はその、批難された側のイスラエルを代表する映画作家、会自体は残念にも先週で終わってしまったものの、
アモス・ギタイ監督によるドキュメンタリー作品ばかりを集めた企画へ行ってきたので、その話もついでにこの項で。
観たのは 『戦争の記憶』(1994)という、この監督は、“第四次中東戦争”を経験したことから作家になったんだけど、
戦争当時に監督自身が撮影した8㎜映像を織り交ぜながら数々のインタビュー証言により戦争の記憶を再構築し、
そしてそうすることでギタイ監督の作家としての源泉をもたどってゆくというかなり毛色の変わったドキュメンタリー。
題材通りに堅い作品だけど、監督の若干ナルシストな部分も含めて、なかなか観応えのある興味深い1本だった。

画像
アモス・ギタイ監督

その中で、監督の娘さんかな?も出てきてインタビューに応えているんだが、当時は10歳か11歳ぐらいだったか、
とにかく彼女が「バカな意地の張り合い」だとやはり戦争を始めるのはいつの世も男だという部分に言及していて、
だけど第四次中東戦争の時は首相が女性(ゴルダ・メイア)だったから「じゃあ女性が上に立つ社会の方がいい?」
と突っ込んだのに対し「…女も問題を起こすワ」と切り返したのが「キミ大人だ!」という感じですごく印象的だった。
ハナ・マフマルバフじゃないけれど、この子も映画作家になっていたらいいのにな…とそんな風にも思ってしまった。
とにかく話は元へと戻り、世界中場所を違うことなく、子供が加速度的に生きにくくなっている歪んだ現代に対する、
若い女性ならではのエネルギッシュな怒りと優しさが生んだ、今後また注目されるであろうアフガンが舞台の佳作。
この映画は、題材や国、または宗教を越え、“子供の情景”より浮かぶ愚かな大人たちの姿こそを描いているのだ。

『子供の情景』
岩波ホール(神保町) にて公開中 ]
「アモス・ギタイ ドキュメンタリー・セレクション」
アテネ・フランセ文化センター(御茶ノ水) にて4月21日(火)~25日(土)まで開催(期間終了) ]