地獄が“戦え”と俺に言う 『ソドムの市』

画像1975年11月2日、
映画に出演した同性愛者の少年に、
痴情のもつれから殴り殺されるというスキャンダラスな最期を遂げた、
イタリアの異端映画作家、ピエル・パオロ・パゾリーニ(1922~75)の
遺作にして異形の傑作、『ソドムの市』(1975)の方ではなく、
これは、
『リング』 や 『女優霊』 の脚本家として知られる、高橋洋の初長篇ホラー作品。
昨年、ユーロスペースで開かれた特集企画で話題を呼んだ本作が、
「特集上映 現代日本映画2002-2004」と題された
アテネ・フランセの企画のなかの1本として再映されるというので観に行った。
『パッチギ!』 や 『ローレライ』 ばかりが日本映画じゃない。

本作のことを高橋氏は、「地下映画」と称している。
“地下”とは、普段は意識することのない、その“意識の下”の部分のこと。
そこに眠っているものを、映画にしなければならないと氏は提唱する。
つまり“意識の下”とは、有り体な言い方をすれば“本音”のことを指すだろうし、
それは人間の本能の中枢、思考のはらわた、と言うこともできる。
とにかくそれを地上に解放することこそが、映画本来の使命である、というのだ。

ボクたち人間は、誰しも脳の奥の古い部分に“狩猟本能”を隠し持っている。
そしてその狩猟本能は、人間にとって“血を好む”ということにほかならない。
だからどんなに意識の美化を図ったところで、
人間でありつづけるボクらは、“血が見たい”といつも意識の底で渇望しているんだ。
人の不幸に愉悦を覚え、禍々しいものに思わず惹きつけられてしまう…。
どんなに隠したって、そういう感情はきっと誰しもが持っているハズだ。
下世話なワイドショーを好み、人の噂に駆り立てられ、残酷なニュース映像に打ち震える、
それらはすべて、“意識の下”の“思考のはらわた”による呼応なのだ。
ボクも、そしてアナタも、その事実を決して否定することはできない。
だけど、そんな人間の邪悪な部分を、ボクは“必要悪”だと思っている。
つまり、冬があるからこそ夏があるように、雨が降るからこそ木が育つように、
それがあるからこそ、人間には“思いやり”の感情もあるのだ。
そのためにボクらは、ほかの種にはない“こころ”と“理性”というものを携えているに違いない。
性善説か性悪説のどちらか一方というのではなく、
その両者の葛藤から“邪悪さ”や“思いやり”の感情は生まれ、
しだいに人間は悪を識別、嫌悪して、善を育んでゆくのではないだろうか?
そして、そういった心の作業がうまく機能するように影響しなければならないのが“環境”であり、
それがうまくいかず歪められてしまったゆえに起こる事象が犯罪なんだとボクは思う。

で、けっきょくボクは何が言いたいのかというと、
そういった人間の心の“マイナス面”に作用するホラー映画の“プラス的”可能性について。
要するに、ホラー映画とは、
人の心の暗部に潜む他人の不幸や血が見たいというマイナスの欲求を、
最も健全に、最も合理的に、
そして最も合法的に発散・昇華させてくれるれっきとした“エンターテインメント”であるということだ。
不適当かもしれないが、わかりやすい似たような例をひとつだけ挙げるとすると、
世間的には一見後ろめたい印象の性風俗やAVなどのアダルト・エンターテインメント産業が、
実は少なからず性犯罪抑止の一端を担っているという明らかな事実。
ホラー映画を観て残酷なシーンの数々に感情移入することにより、
鬱積した内なる破壊衝動が解放されるということだって間違いなくあるのだ。
そしてそれは“癒し”という言い方もでき、それを心理学では“カタルシス(浄化)”と呼ぶ。
美しい恋愛映画を観てやさしい気持ちになったり、
切ない人間ドラマを観て温かい涙を流したり、
アクション映画を観て自分も強くなったような気分に浸ったり、
ホラー映画を観てスカッとしたりゾゾッとしたりというのは、
実はまったく同一線上の心の浄化作用なのである。
だいたい映画に限らず小説も、音楽も、絵も、お笑いも、あまねく“表現”と呼ばれるものはすべて、
心のマイナス面から生まれていると言っても過言ではないとさえボクは思っている。
エンターテインメントの本質とはそういうものだ。
表面上に見られる方向性の違いなんてものは、単に個性からくるものでしかない。
だから、アダルト産業が性犯罪を助長しているとか、
ホラー映画やホラー・ゲームが猟奇犯罪を生み出しているなどという、
いわゆる10代を中心とした異常犯罪が起きるたびに述べられる識者たちの見解というのがあるが、
それはあくまで犯罪を犯した者の社会背景や人間環境に問題があるのであって、
ホラーやアダルトが悪いというのは責任転嫁もいいところなのである。
それらにまったく問題がないというわけではないが、少なくとも“根源”でないことだけは確かだ。
ホラーやアダルトが諸悪の根源などという凡庸論は極めて危険な言論の統制であり、
そしてそれはファシズムの端緒だとボクは思う。

高橋氏の「地下映画」の定義から話は大きく膨らんでしまったが、
もしも、でもやっぱりホラー映画はちょっと……という方がいたら、
ぜひ一度このような観点からいろいろと観直してみることをおススメする。
そこにはきっと、今までに感じなかったような新たな価値観が転がっているハズだ(ないかも?)。

高橋氏は映画のなかで、
“意識の下”に拡がるものを“地獄”と表現している。
「地獄が、地獄が“戦え”と言うとるんや!」
意識の下の地獄こそ生きてゆくためのエネルギー、そしてそれは何かを生み出す強大なパワー。
地獄の声に従って、氏はこの世の中の本当の諸悪の根源…“偽善”と戦おうとしている。
残念ながら、映画そのものは間違ってもよくできたと言えるような類の代物ではない。
往年の新東宝怪談映画も裸足で逃げ出すあまりの稚拙さ、間の悪さにテンポの鈍さ、
よほどの暇人か物好きか映画マニアでもない限り(実際、会場はそんな人たちばかりだった…)、
とてもじゃないが正視に堪えさせることは不可能だと思う。
でも、それはあくまで表面上の技術的な問題だ。
スクリーンの奥にしっかり根づく映画の“意志”のようなものはハッキリと感じ取ることができる。
何より、10年前に石井總互監督の 『水の中の八月』 を観て以来、
個人的に密かに応援し続けている若手正統派女優・小嶺麗奈もキャリアを懸けて戦っている!

果たして、ボクの“意識の下”にあるものはいったいどんな形状なのだろう…?
ただひとつだけ確実に言えることは、ボクにとって“映画を観る”という行為は、
そこに眠っているものに対する“意識の呼応”ということだ。

地獄が“闘え”と俺に言う…、
瓶詰めにされた地獄が、
ボクに“映画を観ろ”と言っている。

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