観ずに死ねるか!? “スゴイ映画”ミシュラン! 「カール・ドライヤー監督特集 日本最終上映」

昔、高田馬場出て、早稲田通りを早稲田方向へと歩いてゆき、
明治通りを越えてさらに5分ほど歩いた進行方向左手あたりに、
「ACTミニシアター」という劇場があったのを知っているだろうか?
雑居ビルだったかの2階にあり、学校の教室くらいのスペースしかなく、
座席ではなしに座イスに腰掛けアグラとか体育座りの体勢で観るという、
それは場末感満点のしかし味わい深く居心地好い、素敵な小劇場だった。

20代の半ばチョイ過ぎたぐらいに、紆余曲折あって東京に一時的に暮らしていた頃、
それまで映画館で映画を観ると言えば、新作映画を追いかけるばかりだったボクは、
東京で新たに映画観生活を始めたことをキッカケに、新作映画の鑑賞は極力絞って、
いわゆる古今東西のクラシック映画をビデオ鑑賞含め精力的に観るようになったのだ。
バックパッカー旅行へ出るため久我山で住み込みの仕事をしていた頃の話なんだけど、
その年は実に450本程度の映画を1年未満の間に観たと思う。今じゃもうゼッタイに無理。
あの頃は、旅に出ようと燃えていたし、また「映画に詳しくなりたい」という気持も熱かった。

それでアテネ・フランセやフィルムセンターや、今はなき三百人劇場へ足繁く通うかたわら、
件のACTミニシアターにもヒマを見つけては何度となく出かけていったんだけど、その年は、
阿佐ヶ谷にラピュタができたり現在のシネマ・アンジェリカの前身の劇場が渋谷にできたり、
また一方じゃ大井町の武蔵野館が閉館するなど名画座事情が微妙に変わりつつある頃で、
ACTミニシアターも旅に出て東京を離れているウチ、いつの間にやらなくなってしまっていた。
(実は「旧文芸坐」って行ったことなかったんだけど、確か、池袋にも「ACT」ってあったよね?)

川島雄三や鈴木清順や浦山桐郎の諸作もそこで観たし、『丹下左膳余話・百萬両の壺』、
そして 『河内山宗俊』 といった山中貞雄の名作とか、ロッセリーニだとかデ・シーカだとか、
はたまた陳凱歌や田壮壮ら中国第五世代の初期の頃の作品などもみな高田馬場で観た。
通うたんびに映画というジャンルの歴史的奥深さと自分の知識のなさに打ちのめされたし、
しかし通うたびに、自分の中に映画が蓄えられてゆくその感覚がたまらなく心地好かった。

名古屋にいた頃、よく年上の友人たちから、「オマエは古い映画を知らないからダメだ」と、
映画にだって“体系”というものがあるのだから、新しい映画だけ観てても“意味がない”と、
ソッチだって知らないクセにと思いつつ散々言われていたからそれに対する反抗心もあった。
あいにくいまだに映画にはチットモ詳しくないし(謙遜じゃなく)、映画なんて観れば観るほど、
パラドックス的に知らない映画が増えてゆくという真理に打ちのめされる毎日なんだけども、
やはり映画はDVDではなく、映画館で観るものだという確信だけは一生変わらないと思う。



で、そのACTミニシアターが定期的に開催していたのが、「古典映画オールナイト」という、
今じゃ興行的にはゼッタイ考えられない至極パーソナルな感じの特集企画だったんだけど、
館主さんが上映前にひとつひとつ作品解説してくれたことを、今も印象的に憶えている……。
そしてその映画史の教科書的ラインナップ、ジョルジュ・メリエスの 『月世界旅行』(’02・仏)、
エドウィン・S・ポーターの 『大列車強盗』(’03・米)に、ルネ・クレールの 『幕間』(’24・仏)に、
ロベルト・ビーネの 『カリガリ博士』(’19・独)にトッド・ブラウニングの 『フリークス』(’32・米)、
そしてロベール・アンリコの傑作、『ふくろうの河』(’62仏)と併せてその時初めて観たのが、
無声映画期から1964年まで映画を撮り続けた、デンマーク出身の超伝説的な映画作家、
カール・テオドール・ドライエル、カール・ドライヤーの名作 『裁かるゝジャンヌ』(’28)だった。

今やシネコンの台頭などで名画に触れる貴重な機会がますます失われつつある昨今―。
そんな中、先週末より上述のアテネ・フランセで開催中、「カール・ドライヤー監督特集」は、
その 『裁かるゝジャンヌ』 を含む5作品の日本における上映の権利が終了するということで、
しばらくはスクリーンでドライヤーの作品が観られなくなるかもしれないと組まれた好企画!
残念ながら、ボクはドライヤーを人に語って聞かせるような勇気も度量も持ち併せちゃない。
ただ少し触れたことがあるという、その経緯をささやかな誇りとして記せるのみ程度である。
だから観てほしい。通ってほしい。本気で映画好きならば。“スゴイ映画”を知りたいならば。
仕事や学校の1日2日などサボりデートなどすっぽかし、万難排して5作品全部観てほしい!

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『裁かるゝジャンヌ』 は、言わずと知れたフランスの国民的英雄、ジャンヌ・ダルクの物語。
異端者として宗教裁判にかけられた彼女が、一生、獄中で生き永らえることを潔しとせず、
自ら進んで火刑に処せられるその崇高な姿を描いたドライヤー無声映画期の頂点的傑作。
解説によれば、古文書、つまり本物の裁判記録を元に研究が重ねられているということで、
映画の古さも手伝い史実を目の当たりにしているかような臨場感が味わえて感動は必至!
古いとは言えすべてが斬新。どころか観たら今の映画の方こそ古ボケてしまうに違いない。

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『吸血鬼』(’30-31)。村の不気味な城に宿をとった旅人が、衰弱している城の娘を発見し、
やがて人間の生き血を吸う吸血鬼の女と対決するという、怪奇映画の古典中の大古典だ。
今日びのオラオラ系のホラー映画(というより、現代の映画全般)のように決して見せすぎず、
観る者の想像力こそをくすぐるような陰影の濃い映像に心底ゾクゾクとする、これまた傑作。
確かに禍々しくも妖しい恐怖映画なんだけど、しかし昔の映画って、本当に品がいいよね。

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『怒りの日』(’43)。自分の息子よりも若い女を後妻に娶った山本文郎的(?)な老牧師と、
オヤジの隙を見ては、その後妻の色香に鼻息を荒くするデキの悪い前妻の息子、そして、
案の定、勃たない年寄りでは満足できずやがて若い肉体にすがりついてゆく淫乱嫁……。
古典だ名作だとかしこまらずに平たく言い換えればこんなピンク映画の定番みたいな話を、
しかし魔女狩りが行われていた中世のノルウェーの村を舞台にすることによって、監督は、
所詮キリスト教など人間の欲望を合理化する手段にすぎないのではないのかと告発する。
ドライヤーの映画で苦しむのはいつも女だ。それは卑屈で臆病な男と違って女という性が、
常に勇気と先進性に充ちているため、抑圧を受けるからだろう。鋭い洞察力に唸るばかり。

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ドライヤーの遺作 『ゲアトルーズ』(’64)は、恋に奔放なヒロインの生き様を追っただけで、
これまたヘタをすれば単に昼の連続ドラマのレベルになってしまいかねないような題材を、
自分しか愛せない人間の孤独と業深さを体感させるドラマに仕上げた虚飾のない秀作だ。
今観たら本当に物語自体はありきたりなんだけど、セリフや描写の一つ一つにムダがなく、
画面が終始緊張感に充ちているからコチラの神経が一瞬たりとも弛むことを許さない……。
ドラマそのものはありきたり、だけどこんな凄い恋愛映画には滅多にお目にかかれないゾ。

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そして 『奇跡』(’54)。原題「ORDET」とは“言葉”という意味の、ラース・フォン・トリアーが、
『奇跡の海』 はこの映画へのオマージュだとさえ語っている(そして、『裁かるゝ~』 への)、
モノクロの映像がとにかく息を呑むくらいに美しいドライヤーの最高傑作との誉れ高い1本!
ただ描かれる題材はあくまでキリスト教だし、たとえばベルイマン映画がそうであるように、
中には拒否反応を示す人もいるかもしれない。でも、これは“信じる”ことについての物語。
ドライヤーを信じて映画を観続ければ、ラストには自ずと涙が頬を伝っていることだろう―。



なにゆえにこんな古臭い映画たちがいまだに高く評価され、劇場に人が集まるのか…?
今現在創られている映画の方が派手だし楽しいじゃん、とキミはそう思うのかもしれない。
確かに、それを否定する気は毛頭ないし、刹那的なドライヴ感を満喫するのもまた映画だ。
だけど、上記の5作品とガチで対峙したなら、きっとキミだって次の事実に気づくことだろう。
つまり、必死に葛藤している劇中人物ともども、映画がいまだに“生きている”ことに……。
それがどんなに凄いことか、それだけは、DVDではゼッタイに味わえないってことなのだ!

とにかく!最後のカール・ドライヤー。チャンスは今週土曜日までしかない!
今週一週間ぐらい、すべての予定をキャンセルして水道橋へと駆け付けろ!
じゃないとこの先の人生……一生後悔するかもしれないゾ!!!

「カール・ドライヤー監督特集 日本最終上映」
アテネ・フランセ文化センター(水道橋) にて4月26日(土)まで開催 ]

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